触れた手のひら、離れる瞬間が別れだと知っていたけど
雷の乙女と誰だかが言っていた。
立花誾千代は、まさに雷の乙女だ。その技のみから付けられた異名とは軽んじ難い、雷の放つ閃光のような、猛々しくも美しい紫の雷光そのものだ。
戦場で初めて誾千代の戦ぶりを見た時、は名を名乗られる前から、この女こそが立花誾千代に違いないと悟った。
目を奪われた。
危うく命を落とし掛けたが、辛うじて敵の斬撃をかわし、打ち倒す。
戦場の混乱で誰にも痴態を見られなかったと思っていたのに、実は当の誾千代に見られていたと知った時、は思わず顔を真っ赤にしたものだ。
「武を志す者が、戦場であのような木偶の坊然として。恥を知れ」
誾千代の痛烈な罵声にも、は返す言葉がない。
「……だが、あの返りの一太刀は、なかなかのものだったな」
顔を上げたに、誾千代はにやりと得意げに笑ってみせる。
本当に、抜け目なく最初から最後まで見届けていたのだ。
「ところで、どうしてあのように立ち呆けていたのだ。如何に腕が立つとはいえ、無防備にも程があろう？」
「貴女に、見惚れていたのです」
何気なく問い掛けた言葉に、も何気なく答える。
誾千代の顔がみるみる赤く染まり、はにやりと笑った。
「か、か、からかうな！！」
腹を立てたのか、肩を怒らせて立ち去る誾千代を、は笑って見送った。
もしこの時誰かが聞き耳を立てていたならば、周瑜をして物堅いと称されるが、こんな悪ふざけをするなどと驚いたやも知れない。
としては悪ふざけのつもりもなく、ただ何となく誾千代を怒らせてみたかった。
それが特別な感情だと分かるのに、然して時間は掛からなかった。
気が付けば誾千代と行動を共にするようになっていたは、やはり誾千代と共に窮地を迎える。
敵地に威勢良く突っ込んだまでは良かったが、それが巧妙に仕組まれた敵の罠だと看破出来なかったのだ。
味方の兵士は浮足立ち、散り散りになって態勢を整えることもできない。
各個離脱を命じるのがやっとの有様で、は自ら殿として死地に立った。
その背に覚えのある気配を感じ、情けないような悔しさを覚える。
「……俺には殿が勤まらんとでも？」
「その大役、立花にこそ相応しい」
じりじりと包囲の輪を狭めてきた敵兵の群れの中から、三四人がわっと躍り掛かってくる。
それらを打ち倒し、また背中合わせに構えを取る。
「貴女が逃げんで、誰が今後の指揮を取ると言うんです」
「孫権の兄も戻った。虎殿も、牙を取り戻した。貴様が案ずることはない」
またもわっと躍り掛かる敵を、二人は再び打ち払う。
同時に飛び出し、同時に戻る。
阿吽の呼吸は舞にも似て、互いに互いを魅了した。
埒が明かぬと見たか、殺気は幾数倍にも膨れ上がる。
一気に片を付ける気だと知れて、は横目で誾千代に合図を送る。
誾千代もまた、視線のみでの意図を察し、小さく軽く頷いた。
わっと飛び掛かる敵兵は、その瞬間を見切って放たれた渾身の無双に悉く巻き込まれていく。
一瞬とは言え、包囲網に穴が開いた好機をは見逃さなかった。
自然に誾千代の手を取り、駆け出す。
背後から風を切って矢が飛んでくるのを、は豪胆にも無視して駆け続けた。
しっかりと握り締めた手に、力が篭め返される。
何より、誾千代を間近に感じた。
愛しい、守らなければという思いがふつふつと湧き上がる。
駆けて駆けて、ようやく敵を振り切った。
が足を止めると、さすがの誾千代も息を切らせて青褪めている。
これ以上は、まともに走れまい。
辺りを見遣ると、主を失くした馬が、うろうろと当てもなく歩いているのが目に止まった。
口笛を吹くと、主と思い込んだか嬉しげに走り寄ってくる。
「さ、誾千代殿。この馬に」
無礼は承知で押し上げるようにして馬の背に乗せると、それまで繋いだままだった手に、冷たい風が染み込んだ。
その冷たさが、胸に染みる。
「…………」
物も言わず、誾千代の横顔を見詰める。
視線に気が付いた誾千代がいぶかしく見つめ返すのも気にせず、見詰め続けた。
これで、最期になろう。
は、今度こそ覚悟した。
二人で背を合わせて戦う高揚を、最後に味わうことが出来た。それだけで、いい。
「行け」
「……？」
誾千代だけを乗せた馬の尻を、は鞘で引っ叩いた。
突然の痛みに驚いた馬は、甲高く嘶いて全力疾走で駆け出した。
手綱を失った馬を御することはできず、誾千代は驚きと非難を篭めての名を呼ぶ。
舌を噛まねば良いが、とは苦笑した。
赤兎が如き名馬であればともかく、あのような駄馬で二人を乗せての逃避行は叶うまい。
ならば、が残るのが筋だと思った。
身分立場の話ではない。
愛する女をこそ行かせずして、何が男かという思いがあった。
触れた手のひら、離れる瞬間が別れだと知っていたけど、それでもに後悔はない。
今は敵兵の影も見えずとも、そこいら辺りをうろついているのは気配で知れる。
一つ、こちらから出向いて敵の目を引き付けるかと、適当な気配を手繰っている時だった。
遠くから、馬のいななきが聞こえる。
おあつらえ向きに向こうの方から来てくれたかと、身構え掛けて呆れ返る。
現れたのは、誾千代だった。
手綱代わりに馬の鬣を引き、器用に馬を御している。
「……何をしている」
「その言葉、そっくりそのままお返しするぞ。立花が、馬すら御せぬと侮ったとてか」
胸を張って偉そうにそっくり返る誾千代に、はひたすらに呆れ返る。
「御せなかったろう」
「あれは、お前が悪い」
てっきりが乗り込むものと決めて掛かっていた誾千代は、必要以上に前に腰掛け体の安定を欠いていた。いきなり走り出した馬上で、馬を御しやすい正しい姿勢を取り戻すのに難儀したまでの話だと言う。
「……察するところは、ないのか」
「ない」
きっぱり言い切った誾千代は、にやりと笑ってに手を差し出した。
「ここで果てるか、共に復讐を果たすか、二つに一つだ。立花は、決して逃げはしない。大切な仲間を犠牲にするなど、もっての外だ」
誾千代は、決して引かぬとその眼で語っていた。
は苦々しく眉を寄せ、渋々と誾千代の手を取った。
「おい」
「何だ」
馬上に引き上げられたは、誾千代の『前』に座らされている。
「お前は、どうも馬には乗りたくないようだからな。はばかりながら、この立花が馬を御そう」
「俺の図体を挟んで、前が見える訳がなかろう」
鬣を握り締める誾千代の手を解き、自らの腰に回させた。
「しっかり掴まっていろよ」
「……ふん、貴様が嫌だと抜かしても、掴まって居てやるわ」
言うなり力の篭もる手に、は何故だか笑いが込み上げる。
戦場を離脱する馬が一騎、土煙を上げて駆け去っていった。
馬上には、前を見据えて猛る馬を御す男、その後ろにはその男の背にしっかりと掴まり、心安くもたれる女の姿があった。
勇ましい、武者の夫婦を見たと、噂になった。
終
（お題提供：確かに恋だった様）