我が友尚香、と呼び掛けるだけあって、稲姫の尚香への友情は篤い。
 家康に従って参じた蜀の地で、再び尚香と一緒に居られることが分かった時の稲姫は、感情を露にすることを恥と定める少女にしては珍しい程にはしゃいでいた。
 別に小躍りしていた訳ではなく、頬をふわりと紅潮させ、きゅっと引き上がりそうになる唇の両端をむずむずさせながら押さえている、という程度ではある。
 だが、傍らで稲姫を見続けていた者にとっては、それがどれだけのことかを理解するに足る。
 もまた、そんな稲姫の『異変』に気が付いてしまい、苦笑を禁じ得ないクチだった。
「……何ですか、
 自分の事はさておき、配下のことには敏感に察するものか、きっと険しい目を向けてくる稲姫に、は肩をすくめた。
「言いたいことがあるなら、はっきり仰いなさい!」
 まるで姉か母親のように叱り付ける稲姫に、の苦笑は深まる。
 仕方なく思った通りのことを口にすると、稲姫の顔が一気に赤くなった。
 そんな顔も、珍しい。
「べ、別にそんな……全然、そんなことはありません!」
 いつもの通りの私です、と重ねて強調してくる稲姫の背後の方向に、話題に挙がった尚香が歩いているのが目に留まる。
 の視線を辿って、稲姫も尚香の姿に気が付いた。
「しょ」
 呼び掛けた声は、最初の一音を発するのみに留まる。
 尚香は劉備の姿を見つけると、稲姫に気付くことなく、それ故に振り返ることもなく、一目散に駆けて行ってしまった。
「…………」
 振り上げ掛けた手を力なく下ろす稲姫は、傍らに立っていたの姿がないことに気が付いた。
「稲姫様ーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!」
 訝しげに辺りを見回した途端、大声量で名を呼ばしめられて、稲姫は軽く飛び上がる。
 見れば、側に居た筈のが何故か遠くから駆けこんで来るではないか。
 何を考えているのやら、と羞恥に駆られた勢いで怒鳴ろうとするも、今度は別の方向から名を呼ばれて叶わなかった。
「稲ー」
 尚香が、劉備と並んで微笑みながら手を振っている。
「玄徳様が、美味しい月餅があるからお茶でもって! 稲も一緒に行きましょうー?」
 嬉しい申し出に、しかし二人の仲を邪魔するのもはばかられるような気がする。
 迷う稲姫の背を、の手が押し出した。
「さぁさぁ、折角のお申し出ですし有難くお受けいたさねば」
「……って、貴方も一緒に来るつもりですか!?」
 は笑うばかりで、稲姫の問いには答えなかった。
 柔らかい、掴みどころのない笑みに、稲姫も渋々と口を噤む。
「失礼のないようにするのですよ。劉備様は、殿がお世話になっている方なのですからね」
 それでも小言を付け足してくる稲姫に、は悪戯っぽく目を瞬かせて見せた。
 二人急ぎ足で劉備と尚香の元に向かう。
 合流直前、稲姫はぽつりと、にしか届かない小さな声で囁いた。
「有難う、
 は素知らぬ振りで、稲姫の声が届いたのかどうかも定かでない。
 稲姫が尚香の前に立つと、尚香は自然に稲姫の横に並んだ。
 その自然さが、稲姫には嬉しい。
「玄徳様の月餅、美味しいのよ! 私なんて、いつも5個は食べちゃうんだから!」
「尚香、それはちょっと食べ過ぎよ」
 他愛無い会話に興じる乙女二人を、男二人は微笑ましく見詰めながら、ゆっくりとその後を追うのだった。

  終

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