戦が終わり、残務処理もようやく一息着いた頃、主である甄姫がするりと天幕に忍び入ってきた。
 その身からわずかに酒精の香りが漂う。
 酔っておられる、とは察した。
「まだそんなことをしているの。さっさと片付けてお仕舞いなさい」
 イラついたような、侮蔑の入り混じる命令だった。
 は静かに頭を下げ、広げられた竹簡を巻きにかかった。
 ちょうど今終わったところだなどという言葉は言い訳にしかならない。特に、今の甄姫に言ってはならぬと覚っていた。
「鈍い、鈍いですわ。愚図な男は嫌いでしてよ」
 甄姫の足がの肩を蹴り上げる。
 痛みに眉を顰めるが、手を止めることはなかった。
「……何故、怒りませんの。私が魏の次代を担う曹丕の妻だから? 我が君が怖くて?」
「俺が怖いのは、甄姫様、貴女様ただ一人です」
 ぽつりと呟いたの言葉に、甄姫は呆然と立ちすくみ、転瞬けたたましく笑い転げた。
 甄姫の笑い声が鼓膜をつんざくのを感じながら、は黙々と竹簡を巻き上げた。
「そう、では良かったこと! 貴方は、国許に戻れば我が君の副官に任命されてよ!」
 初耳の事実に、だがはびくともしなかった。
 自分の甄姫への視線が、曹丕を不快にしたのだろうと察しがついた。
 次の戦で自分は死ぬかもしれない。味方からの謀殺によって。
 それでもは冷静だった。仕方ない、と思っていたからかもしれない。
 自分が恋焦がれたのは、決して愛していい女ではなかったのだから。
 笑い転げていた甄姫の目から、突然涙が落ちた。
 嘲笑は慟哭に変わり、甄姫は身を屈めて泣いていた。
「……何故、何故ですの、我が君は私の想いをお疑いなのでしょうか。私が頼りにしている者達を、次々に奪っていく。私はこんなにも我が君を愛しているというのに……!」
 それが独占欲というものなのですよ。
 は声には出さず、胸の内でそっと呟いた。
 国許から着いて来た侍女はすべて甄姫の元から去らせた。袁煕の用意した侍女が、甄姫の世話を見るなど曹丕には耐えがたかったに違いない。
 それからずっと、甄姫の周りに長期間勤めた侍女は一人も居ない。心を許す友など、甄姫には必要ないと思っているのだろう。
 同じように、甄姫の為に命を投げ出す忠臣も、頼るべき頭脳も、手足となる武も必要ないと思うに違いない。
 それらは望まずとも、甄姫の凛とした上位にある者の気質が忠義には報いを与えるべしと望むだろうから。
 甄姫は何も見てはいけない。
 何も望んではいけない。
 何も答えてはいけない。
 何も与えてはいけない。
 甄姫のすべては曹丕の為にあるべきだからだ。
 俯き震えている甄姫の白い首筋に、解れ毛が落ちている。
「甄姫様の顔は、とてもお美しい」
 突然口を開いて出たのはそんな言葉だった。
「その身も、香りも、何もかも」
 顔を上げた甄姫の目が、ゆるりと笑みに歪んだ。
「……貴方は長い間、私に良く仕えてくれました。何か、褒美を授けて上げましょう……何が良いかしら」
「……お許しいただけるなら……一夜の夢を、見せていただきとうございます」
 甄姫の喉が、くつくつと震えた。
「夢、夢と言うのね。よろしくてよ。……これは、夢ですわ……」
 笑いながら涙を零す甄姫は、今までが見た表情の中で最も美しい、凄惨な艶があった。

 たった一人を想うことの苦しさに、曹丕も甄姫も焼かれている。それはには馴染みの業火だ。自分は平気でも、耐えられても、きっとお二人には辛過ぎる。ならば。
 慈しむべき主らにできる最後のご奉公に、は下らぬ倫理に目を背けただ一途に甄姫の闇に身を沈めた。

  終