月英の諸葛亮への拘りを、いつも危ういと見ている。
これは、のみの見解では恐らくない。月英の、諸葛亮への愛は妄信的と言ってさえいい、周知の事実だった。
揺らぐことがあるのだろうか。
考えてみても、今ひとつピンと来ない。
月英と諸葛亮が如何にして出会い夫婦となったか、その件はの知るところではなく、かと言って醜聞よろしく嗅ぎ回るつもりもない。
自分が嫌だからかもしれない、と思ったことがある。
どんなに理屈付けても、所詮は興味本位の探り入れに過ぎない。調べれば調べる程、きっと己を止め難くなろう。
ならば、最初から戒めるべきだとは決めていた。
それを破ったのは、己の命どころか軍団そのものが壊滅の危機に陥りかけたという焦燥からだったかもしれない。滑る口を、は止めることが出来なかった。
「何故、こんな無茶を」
月英の暴走に忠実に従った将兵は、その数を十分の一程度に減らしていた。
暴走の原因は、諸葛亮敗走の危機にあった。
此度の作戦の長たる諸葛亮が敗走しては、確かに蜀軍全体の敗走に繋がりかねない。
だと言って、交戦中の敵に背を向け渡河する愚を冒さずとも良かったとは思う。
「私達が、孔明様に一番近い位置に居りました」
「ですが」
諸葛亮とて軍を率いる者。軍師として、五虎大将に並ぶ武こそ持ち合わせてはいないかもしれないが、その実力たるやそこいらの将に引けを取るものではない。
交戦中の隙を伺うこともできぬ程、早急に駆けつけねばならぬような脆い軍師とは思えなかった。
急な命令変更は軍にわずかな動揺と大きな混乱を招き、その上で渡河を強行したことで敵に弓矢を番える余裕を与えてしまった。
明らかな失態だ。
「もっと、将兵を鍛えておかねばなりませんね」
ところが、月英は平然とそんなことを言い出した。命令は絶対であると骨身に染みていれば、今回のような無様は晒さずに済んだと言わんばかりである。
さすがのも腹に据えかね、思わず言葉を荒げた。
「誰もが妄信できる訳ではありません。まして、貴女が丞相を妄信するようにはゆかぬでしょう」
無礼な口の聞きように、しかし月英は柔らかな笑みを浮かべた。
「私に出来ることが、何で他の者に出来ないことがありましょう」
「しかし、それではあんまりです」
月英の、危ういばかりの妄信により、月英軍の被害は甚大なものになっている。他の、例えば敗走の危機に陥った諸葛亮軍でさえ、ここまで酷くはなかった。
勝利を収めたと言えども、辛勝と言うに相応しい結果だったのだ。の怒りは月英軍皆の怒りの表れと言って良かった。
「何も孔明様を妄信せよとは申しません。貴方達の信じたいもの、劉備様の大徳であれ平和に治むらるる治世であれ、何でも構わないのです」
妄信できる者は幸せだと月英は言い切った。
「妄信するものなくして、何を支えにこの恐ろしい戦場で戦えましょうか。私の場合は偶々孔明様であっただけです」
凛とした横顔に、は返す言葉がなかった。
いつ命を落とすやもしれぬ戦場に敢えて立つと言うのなら、何がしかの支えが必要なのは道理である。
軍に加わった理由が、例え飢えから逃れ、少しばかりの金を目当てにしてのことだとしても、生きて平和の世を迎えたいなら怯えすくんで戦場に立っては命取りになりかねない。
「……ですが」
ならば、己が妄信すべきは何になろうか。
「……私には、思い当たりません」
平和の世を、と理想はある。けれど、それは未だ実を結ばぬ理想の花だ。咲き誇ってはいるけれど、手折れば結実を望むべくもない。
遠く天上で咲き誇る花を支えとしようにも、あまりに儚く頼りなかった。
「では、私を妄信なさい」
はっとして月英を見遣るが、今の大言がまるで空耳だったと思わせるような、いつもの涼やかな顔をしている。
信じろ、ではなく、妄信せよと軽々しく言えてしまう月英に、それでいてまったく冗談の類に聞こえぬ真摯さを含むその言葉に、は言葉を失った。
同時に、泣きたくなるような切なさで胸が締め付けられる。
どうして探りを入れるのが嫌だったのか、分かってしまった。
月英の方寸に、微塵も己の存在がないことを恐れていたのだ。
妄信せよという月英の言に、戒めていた鎖が粉々に砕け散ってしまう。
何という人だ。
たった一言で、恋と言う妄信に囚われてしまった己の様に、は呆然とさせられていた。
終