+++夢の続きをくれたのは、あなただけだったよ
簒奪者。
かつて、は劉備をそう名指しして詰ったものだ。
巴蜀の豊かな土地、戦乱を余所に平和に暮らす人々の営みを汚す男だと。
親族たる劉璋を攻めその地を奪う簒奪者だと、声高らかに罵り詰ったものだ。
劉備は、悲しげな顔でそれを聞いていた。
少しは己の声が届いたかと、黒い感情に笑みを映したの前に、長身の男が立ち塞がった。
それが、諸葛亮だった。
結局劉璋は降伏し、蜀は劉備のものとなった。
すべては簒奪者の思惑通りかと、は囚われた牢の中で泣き伏したものだ。
幾日も幾日も、まるで忘れ去られたかのように牢の中に置かれていたは、ある夜諸葛亮の訪問を受けた。
闇に慣れた目でも、灯り一つない牢の中では顔の判別は付き難い。
相手が諸葛亮と分かったのは、案内してきた牢番が『諸葛亮様』と呼んだからに他ならなかった。
「諸葛亮!」
吐き捨てる声に殺気が篭もる。
武に長けたでさえ打ちのめした軍師だ。
文官風情に遅れを取ったと、夜毎恨みを募らせる相手だ。
何しに来たという憤慨があった。
嘲笑いに来たか。醜態を見届けに来たか。
いずれにせよ、ろくな用件ではあるまいと決め付けた。
しかし。
「、貴方に聞いてもらいたいことがあって参りました」
諸葛亮は牢の中に直接入って来ると、慇懃に頭を下げ、の前に恭しく座した。
その手には乗るものか。
睨め殺せるものならばそうしてやる、と、視線に憎悪と殺気を込めるを、諸葛亮は静かに見詰めていた。
諸葛亮の訪問は、連日連夜続いた。
忙しい職務の間を縫って訪れるらしく、話の途中で牢番が迎えに来ることもしばしばだった。
聞く耳すら持とうとしないに、諸葛亮は根気強く説得を続ける。
曰く、蜀の地は魏からも呉からも狙われており、そうなれば被害はもっと大きく凄惨なものになっていただろう。
曰く、劉璋の命は保障され、蜀の地からは去ってもらうことになったが、肥沃な荊州の地で大事に預からせてもらっている。
曰く、これからの戦には、の武が必要である。
曰く、蜀を守る為、の武を預からせて欲しい。
曰く、劉備はこの蜀を基に天下騒乱を鎮め、民に笑顔と平和を取り戻したいのだ。
綺麗事だ、世迷言だと吼えるに、それでも諸葛亮は執拗な迄に食い下がった。
貴方の力が必要なのだ、と。
結局、根負けしたのはの方だった。
諸葛亮の鉄の意志は、劉備に同族殺しの汚名を着せることにすら躊躇いがない。無骨な風情が太刀打ちできる筈はなかったのだ。
諸葛亮は、の立場を慮り、蜀軍にあっても比較的穏やかな人となりの趙雲の下に付けた。
趙雲もまた諸葛亮に何やら言い含められていたものか、には直属の兵を与え、半ば遊軍扱いとして自由に振舞わせてくれた。
こうなると、の方も逆らってばかりいる己を顧みざるを得ない。
うかうかと嵌められてしまった、と歯噛みするも、に与えられる厚遇に変わりはなかった。
いつしか、は蜀軍趙雲配下の重鎮として、その名を馳せるまでになった。
そして今、は五丈原の地に居る。
蜀の主だった将は既にこの世になく、も将軍として一軍を率いて戦うまでになっていた。
己の実力ではなく、激し過ぎた戦が重なり人材を消耗して言った結果、やむなく下の者が上に祭り上げられるという歪な汲み上げの為だとは感じている。
自分は良く生き残った。
運に感謝すると共に、生き残ったことで後悔することも多くなっていた。
人の生とは、そんなものかもしれない。後悔ばかりがうず高く積み上がっていく。
諸葛亮の命の灯火が、今にも消えようとしている。
にも関わらず、は諸葛亮の傍に行くことを躊躇っていた。
劉備の時もそうだ。
身分が違うからと尻込みして、言いたいことも言えなかった。
趙雲に頼み込めば、枕元で伝えてもらえることも出来たかもしれない。
しかし、はそれをしなかった。
蜀攻めの時、無体に詰って申し訳なかった、何も分からぬで責めて申し訳なかったと伝えたなら、劉備の心残りはほんのわずかでも少なくなったのではないだろうか。
否、覚えては居るまい、ひょっとしたらの存在自体、劉備にとっては鼻にも引っ掛けられない軽い存在だったやも知れないと、半ば無理矢理思い込んできた。
諸葛亮も、きっと、のことなど疾うに忘れ去っているだろう。
人材不足は蜀攻めの時点で既に悩みの種だった。
使い捨てでもそこそこ使える武人が欲しかったに違いない。
言い訳を接いで、見回りと称しては外に出ていた。
彼と別れを惜しむべき人は決まっている。
自分に時間を割くよりも、その分彼らへの時間を多く取って遣るべきだろう。
勝手にそう決め付けた。
「殿」
呼ばれ、振り返ると、諸葛亮の妻がそこに居た。
最も傍に居なければならないだろうひとが、何故こんなところに居るのかと眉を顰める。
「孔明様のお傍に、行って上げてくれませんか」
「何を仰っておられるのです。俺なんかが丞相の傍に行ったって」
の言葉を、月英は激しく首を振って遮った。
「貴方が言いたいことは、貴方しか言えないことです。それを聞いたら、孔明様がどんなにかお喜びになることか」
月英は、聡いひとだ。が澱のように心の奥底に溜めた言葉を、知らぬ間に拾い上げ読み取っていたのだろうか。
そうであってもおかしくない知性が、月英にはあった。
けれど、それとこれとは話が別なのだ。
「俺がそう思っていることなど、丞相には疾っくにお分かりの筈じゃありませんか」
月英が覚っているなら、諸葛亮が覚れぬ訳がない。
の言葉を、しかし月英は再び拒絶した。
「察することと言葉で証して伝えることとは、まったく別のものです。殿、もう、時間がないのです。孔明様は戦続きで酷くお疲れです。このまま、戦に疲れたまま逝かせないで差し上げて……」
月英の言葉は、語尾に向かって掠れていく。
その震えは、の胸の奥さえも震わせた。
「俺の、夢は……蜀を、蜀の民を、安寧に、静かに保つことでした。民が笑って、穏やかに、慎ましやかにでも毎日を安心して過ごせるように、と……だけど」
かつて、夢を語り合う友が居て、夢を象徴する君主を戴き、蜀の為にと劉備軍と戦った。
けれど。
その夢は、もっと広く、大きく続けることが出来る夢だった。
「蜀、だけでなく、この天の……何処までも広がる、天の下に生きる民……すべてに、平和を与え、穏やかに生きていくことが出来得るなら、と……」
――夢の続きをくれたのは、あなただけだったよ。
の眦から、涙が一筋溢れた。
後先もなく駆け出したの後を、月英もまた眦を潤ませて追う。
未だ、間に合う筈だ。
間に合って欲しい。
胸に秘した感謝の言葉を告げる為、その為だけに、は駆けた。
終