孫策は、餅を食べたことがなかった。
ある日の元に現れた孫策は、なし崩しにの家に居続けて、こうして正月を迎えた今になっても留まっている。
帰り方が分からないと言うのではしょうがないし、もどうやって帰したらいいか分からない。
何だかの物語のように、ひょっとしたら駅のプラットホームの何処かが違う世界に通じているとか落ちると別の世界に連れて行かれるとかだかかもしれないが、試してみるにはは大人になり過ぎていた。
「うおー、伸びる伸びる」
「食べ物で遊ばないで下さい」
とりあえず注意してみるものの、孫策相手では本当に『みるだけ』に終わってしまう。
いい加減慣れて欲しいのだが、見るもの触るものすべてが新鮮な孫策にとって、この世界は玩具箱のようなものらしかった。
言ったそばから雑煮の椀を引っ繰り返し、大惨事になってしまう。
「ああ、ほら言わんこっちゃない……」
呆れながらも、孫策にタオルを投げる。
洗面所に干してあった雑巾とバケツを駆け足で取りに行く。が戻ってきた時には、孫策は落ちた餅を拾い食いしていた。
「落ちたもの、食べちゃダメって言ってるでしょ」
子供に言い聞かせるように叱りつけるが、孫策は笑って取り合わない。
あれだけ綺麗に掃除したばっかりだから大丈夫だとか何とか、屁理屈にもならない言い訳で返してくる。
本当にしょうがない人だなぁと溜息を吐きつつ、孫策を退かせて掃除を始めた。
目を離していると今度は何をし出すのか分からないから、ちらちらと孫策の様子を伺う。
と、何が面白いのか手元をじっと見詰めている。
ざっと拭き取り、何とか収拾を付けて立ち上がると、孫策は未だ手元を覗き込んでいた。
「……どうかしたんですか」
が声を掛けると、孫策は振り返って親指と人差し指を大きく広げた。
指の間で粘っていた餅が、ねっとりと糸を引いて切れる。
「アレ、みたいじゃねぇ?」
にやりと笑った顔が、下世話だ。
けれど、そういう表情がまた、色気に繋がる男でもあった。
は無言で洗面所に向かう。
「なぁ、」
その後を孫策が追って来る。
は、バケツを床に置き、風呂場の戸を開け放った。
「お風呂、入ってきて下さい」
早く、と指を差して示すと、孫策はやはり笑う。
「入ったら、な、」
の返事を待たずに風呂場の戸を閉めた孫策を、は横目で見送った。
雑巾を洗い、汚くなった水を流すと、洗面台を軽く洗う。
手を洗い、ついでに顔も洗って、鏡を見る。
びしょびしょの顔は、冷たい水にさらされて尚赤かった。
そういうことを期待してしまう程度には、大人にしてもらっている。
を大人にした孫策が居るだろう風呂場から、盛大な水音と機嫌の良さそうな鼻歌が聞こえて来て、そのたくましい体を妄想しかけた自分に突っ込みを入れた。