イブ。
 張遼と初めて過ごす夜になる。
 と言うか、にとっては家族以外の異性と過ごす初めての夜だ。緊張もするし、落ち着かない。
 窓の外にはきらびやかな夜景が広がり、特別な夜だとむやみやたらと強調してくれた。

 名前を呼ばれ、どきりとして振り返る。
 張遼は普段と何も変わらない。落ち着いたものだ。
 きっとこんな風にエスコートするのなんか、お手の物なのだろう。
 日曜の夜とは言え、イブにホテルの一室を予約するのがどれだけ手間隙かかることなのか、想像しただけでわかりそうなものだ。それを難なくこなしている張遼は、本当は誰とこの夜を過ごすつもりだったのだろう。
 付き合ってまだ二ヶ月だ。
 もう二ヶ月と言ってもいいかもしれない。出会ってすぐに体の相性を確かめるという同僚もいないではなかった。
 けれど、は初めての人はちゃんと好きになった人としたいと思っていた。結婚してからと迄は言わないが、できれば将来を考えられる相手と、とも思っていた。
 頭が固いのかもしれない。
 は考え方が古い、と友人に馬鹿にされてから、この話を口にすることはなくなった。
 今日、この時を迎えても、気持ちは変わっていない。
 ずっと張遼が好きだった。告白された時は夢でも見ているのかと思った。
 この二ヶ月で何度かデートを重ねてきたが、は浮き立つ心が少しずつ沈んでいくのを感じていた。
 あまりにも典型的なのだ。
 予約席で有名評論家の絶賛する映画鑑賞。有名シェフの経営するレストランで食事。ホテルの洒落たバーでお酒。タクシーで自宅までお見送り。
 どれをとっても雑誌か何かでコース設定でもされているような、無難なデートだった。
 極め付けが今日だった。
 昼前に張遼が車で迎えに来て海岸沿いにあるレストランで軽く食事の後、ドライブしながら水族館へ。渋滞を避けて早めに都内に戻り、ホテルの展望台から夕日を眺め、予約したレストランで豪華なフレンチ。食事とワインを楽しみ、スイートと思われる部屋に落ち着いた。
 何と言うか、これ以上はない典型的なクリスマスデートだ。
 今にして思えば、張遼の告白は簡素に過ぎた。
 付き合ってもらえないだろうかとの一言に、は驚き息を飲みつつも、自分でいいのかと問い返した。
 勿論。
 そう張遼は返した。
 そして付き合いが始まった。
 夜になればおやすみのコールがかかる。
 出張すれば個人的に土産を渡される。
 食事を作れば黙って食べる。『ご馳走になった、とても美味かった』と取ってつけたような挨拶をもらう。成功しても失敗しても張遼の言葉は変わらない。
 付き合って十日目で抱き締められて、二週間目でキスをして、二ヶ月目の今日、共に夜を過ごす。
 これが普通なのだろうか。
 こんな、取ってつけたようなお付き合いをするものなのだろうか。
 の不安は張遼の無表情さと相まって膨れ上がるばかりだ。
 遊ばれているならまだいい。
 適当にいい家に育って適当にいい学校を出、適当に仕事をこなし適当に見栄えのする自分を、張遼は適当だと思って選んだだけなのではないだろうか。
 平均的で、ありきたりで、そこそこの自分に初めて嫌気が差した。
「シャワーでも、浴びてきたらどうか」
 心臓が大きく飛び跳ねた。
 やはり典型的な張遼の言葉に、ときめきよりも先に暗い絶望を感じてしまう。
「ごめんなさい」
 足がドアへ向かう。コート掛けからコートを引き剥がし、椅子に置いたバックを掴み上げた。
「帰ります」
 張遼の顔がわずかに歪んだ。
 急ぎ飛び出そうとするの手を、張遼が引き止める。
「……何か」
 一度息を飲み、を見詰める。
 その視線すらわざとらしく感じられて、は胸の奥にどうしようもない衝動を感じた。
「何か、してしまったのだろうか、私は」
「……ごめんなさい」
 張遼が悪いわけではない。
 突然のことで戸惑っているだろうし、何故が帰ると喚きだしたかもわからないだろう。わからなくて当然だ。
 典型的過ぎて嫌なんです、なんて、常識では考えられない。
 ただ、どうしても、どうしても嫌だった。
 の目から涙が零れた。
 膝から力が抜け落ちて、立っていられなくなったは、その場にしゃがみこんで膝を抱えた。
 しゃくり上げ、震える肩を張遼はただ見下ろしていた。
「……嫌に、なってしまったのだろうか」
 困り果てたような張遼の声に、は胸に鋭い痛みを覚えた。
 嫌になったのではなく、好かれていないのではないかと怖くなったのだ。
 適当にいい所に連れ出して楽しませてやれば満足するだろうなどと、安く見られているのではないかと怯えたのだ。
 張遼の特別になりたかった。けれど、どうしていいかわからない。どう考えても、自分に特別なものが見出せなかったからだ。
 このまま張遼に抱かれたくなかった。
 とりあえず抱いておけ、と抱かれるのだけは、どうしても嫌だったのだ。
 みっともなさ過ぎて伝えられるはずもない。
 張遼は泣きじゃくるの傍らに膝を下ろすと、その肩を抱き背を撫で始めた。
「……どうしても嫌だと仰るなら、今夜はこのままお送りしよう」
 戸惑いを含んだ声に、今度は呆れられたかと不安になった。怖くて、顔が上げられない。
「ただ、一つだけ確認させていただきたい」
 大きく息を吸い込む音がした。
「私は、貴女に、嫌われたわけでは……ない、と……そう思っても、良いだろうか……」
 が顔を上げると、張遼は常の無表情だった。だが、わずかに影が揺らめいて見える。
 不安そうだった。
「……私は、つまらぬ男故……貴女をどう楽しませていいか、わからぬ。会う度に貴女がつまらなそうにしているのは、感じていた。しかし……どうしたらいいか、私には……」
 声にも困惑が滲み出ている。
 呆然と張遼を見詰めるの手を、張遼は強く握った。その手が震えているのをは知った。
「情けない男と思われるかもしれない。だが、私は……貴女と別れたくは、ない」
 張遼も、不安だったのだろうか。
 そう思った瞬間、の体から力が抜けた。

 慌てる張遼に、はこんな顔もするのかと新鮮な驚きと共に感動を覚えた。

 小さな円卓を挟んで、張遼とは話し合いを続けていた。
 疲れたように眉間を押さえる張遼に、は肩をすくめて上目遣いに伺う。
「……つまり貴女は、私があまりに典型的な行動を取ることに疑念を抱いておられた……と、こういうことでよろしいか」
 こくりと頷く。
 付き合い始めた時点でイブにスイートを取れるわけがないことも、疑念を深める要因だった。そのことも正直に話した。
 張遼は深く溜息を吐き、に向き直った。
「お会いした時の日程は私自身にさほど経験がなかった故、曹操さ……周りの助言をそのまま使わせていただいた為、典型的に感じられたのではないかと思うが如何か。電話は、本当はもっと回数も多く長く掛けたかったが、貴女のご迷惑になってはいけないと控えさせていただいた。貴女が作って下さったと言うだけで、どんな料理も私には本当に美味だった。このホテルも、曹操さ……周囲の好意で譲っていただいただけで、私が予約したわけではない。……他に何かあったろうか」
 少し苛立ったような表情も初めて見る。
「……私で、本当にいいんでしょうか……」
 張遼の目が険しく細められた。思わず体を小さく縮めると、張遼はまた深く溜息を吐いた。
「……貴女が、良い。真面目で古風で、少しおっとりとした……そんな貴女が良くて、私は貴女を選んだのだから」
 張遼は、卓の下からの膝の上に揃えられた手に己の手を重ねて握りこむ。
「私の予想以上に繊細でおられたようだが。さ、私は正直に話しましたぞ。次は、貴女の返事をいただきたい」
 返事と言うと、何だろう。
 きょとんとするに、張遼は三度目の溜息を吐いた。
「私を、好きか嫌いか……その返事をいただきたい」
「え」
 それは、告白ではないか。
 顔を赤らめるに、しかし張遼は決して逃がさぬというように手に力を篭める。
「仰るまでは帰して差し上げられぬ。さ、お聞かせ願いたい」
 さあさあとまくし立てられ、は口を噤んで俯いた。
「……冗談ではなく、本当に帰して差し上げませんぞ」
「……えと……それでも、いいです……」
 好きな人と一夜を過ごすのが、の夢だった。
 ぽつりと呟くと、張遼の顔が面食らったように固まった。
 二人ともしばらく固まったように動かない。の顔だけが、耳の後ろまで赤く染まった。
「……夜は、長い」
 張遼が、何か踏ん切りをつけたように呟いた。
「こうしているよりも、もっと有意義な夜の過ごし方があろう」
 の手を引き立ち上がらせると、張遼はベッドに向かった。
 その耳が赤くなっているのを、は信じられないものを見るように見詰め、込み上げる喜びに笑みを浮かべた。

  終

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