※死にネタです。嫌いな方はご覧にならないようお願いします。
これが最高のバッドエンド
お荷物なのは分かっていた。
猛り狂う馬を御すだけで、相当の神経を使っているだろう。
それぐらい、戦を知らぬにも分かる。
浮き上がる体に恐怖しながら、片手で必死に支えてくれる趙雲の顔を盗み見た。
清冽な面差しが嘘のように歪み、余裕のなさから目が血走っている。
それもこれも、自分が居るからだ。
でも、どうしても離れられない。
彼が好きだ。
狂おしい程に好きだ。
だから、離れられなかった。
負け戦を強いられたのはともかく、混乱に巻き込まれた末に趙雲と二人で敵地を逃げ惑う羽目になってしまった。
駆け続けた馬に限界の兆しが見えてきて、ああ、ここまでかと何となく察しが付く。
馬の口から吹いている泡が、白から血を交えて桃色に変わり、趙雲も遂に諦観を決め込んだ。
如何な相手であろうと、戦うことはおろか武器を扱ったことすらろくにないと二人、徒歩で逃れるのを許してくれるほど甘い敵でもなかろう。
捕虜として生き延びるは武門の恥、ならば殿務めを果たし味方が逃れる時間を作ってやった方が良い。
を抱いて身軽く飛び降りると、二人を乗せてくれていた馬は重量から解放された喜びを示すかのように、快さげに嘶いて崖の下へと落ちて行った。
死を覚悟した趙雲は、自身はさておきとを振り返る。
を人質に取られては、動揺しない自信はない。
この年になるまでひたすらに武に生きた趙雲の、初めて愛した人だった。
まして、命を長らえられる保証はない。
せいぜい弄ばれて悪戯に嬲り殺しに遭うか、難を逃れたとしても飢えて渇いて惨い死を迎えることは決まり切っていた。
ならば、と趙雲は槍を握る手に力を篭める。
滑る程に汗を掻いて居る、とその時初めて知れた。
緊張している。
まるで、初陣の時のような心細さだった。
あの時は自分の武が如何ほどのものか、果たして立志に見合うに足るものかと不安だった。
今は、ようやく得た翼をもぎ取られ、地に投げ出されるかのような絶望感がある。
それでも、やらなければならない。
鬼気迫る趙雲の様に察するところがあったのか、はさっと青褪め、飛び退るように崖っぷちへと駆け出した。
逃げ場などない。
あったとしても、どのみち足場の悪さが邪魔をして、非力なが趙雲の槍より逃れることなど叶わない。
趙雲はゆっくり進む。
崖下を覗き込んでいるは、いったいどんな心持ちでいるだろうか。
恐ろしいだろうか。
恐ろしいに決まっている。
ならば、早く済ませてやるに限る。
一瞬で、痛みも感じる間もなくその命を絶ってやろう。
それがせめてもの、そして最後の優しさだった。
ぱっと顔を上げたは、微笑んでいた。
「……」
呆気に取られた趙雲は、思わず木偶の坊然として足を止めた。
「子龍。貴方一人なら、逃げられるよね」
はっとして、最後の間合いを詰めようとして、間に合わなかった。
生きて。
微かな声は谷底から吹き上げる風に紛れてしまうほど小さかったけれど、確かに趙雲の耳には届いた。
肉が潰れ、骨が砕ける音も、確実に死んだであろうの肢体も、悲しいかな趙雲の目には鮮明に映ってしまう。
「……」
趙雲の足元に槍が転がり、趙雲は物も言わずに腕を伸ばす。
届く筈もない遥か下方、黒く凝って冷え切った岩の上に、赤い色が広がっていく。
ひぉう、と風が唸った。
生きて、と言ったの言葉が蘇る。
一人でなら生き残ることが出来る。
確かに、そうかもしれない。
だが、端からそんな考えは捨てていた。
共に生きられないなら、共に死のうと決めていたからだ。
死ぬ時は共に、という趙雲の決意を嘲笑うように、生きて、との声が蘇る。
伸ばされた指先はわなわなと震えながら握り込められ、責めるかのように眉尻に押し付けられた。
慟哭は趙雲の喉を震わせたが、その音が一音たりとて漏らされることはなく、爛とした眼の光は暗く鋭く崖下を睨め付ける。
時がただ流れた。
やがて拳を下ろして現れた白皙の美貌からは、表情という表情が一切消えていた。
無言のまま足元に転がる槍を拾い上げ、一瞥もせずその場を後にする。
既に死に息すら絶えたの目は、趙雲の姿をただ虚ろに映していた。
が、趙雲の姿がその眼から消え失せると、ほんのわずか安堵したように、ふ、と揺れる。
色を失くした目に映るものは、もう何もなかった。
微笑んでいるように見えた。
終