※失恋話です。嫌いな方はご覧にならないようお願いします。
振り向いてくれないくせに、次の恋を邪魔しないで
行くのか、と背後から声が掛かる。
行きます、と前を見据えたまま言葉を返す。
振り向かずとも、そこに居る人の姿ははっきりと思い浮かべられた。
ずっと仕えてきた御方の姿は、の脳裏に焼き付けられて美々しく微笑んでいる。
それ以上は言葉もなく、は馬の腹を蹴って駆け出した。
浅井長政は、が先祖代々仕えてきた浅井家の当主である。
日の光に透けてきらめく金の髪、端正な面立ちに反して、豪く物固く慎重かつ豪胆な人物だ。
の、自慢の主だった。
口に出すことこそなかったが、この命を掛けて生涯お仕えしようと心に決めていた。
女に生まれながらも生来より剣を好むは、単なる変わり者として扱われてきた。このままでは嫁の貰い手もないと、父母によく苦笑されたものだ。
男子に恵まれなかった故でか、の我儘をそれでも見逃し続けてくれていた父が急逝し、状況は一変した。
養子を、それも婿養子をと口うるさく勧める親族を蹴飛ばすようにして、は自ら家督を継いだ。
その際、孤立無援のに気安く口添えしてくれたのが長政だった。
この時初めて主君長政の存在を間近に感じ、御礼申し上げる為に城に上がったは、初めて見る長政に一目惚れした。
最初の内は、美しくも賢才な主に心酔しているのだと思っていた。
恋をしたことがない不器用さ故に、長政への気持ちを確とは測り切れなかったのだ。
それと分かったのは、市が長政の元に嫁いだ時だった。
信頼する部下を見遣る眼差しとは違う、今生この世にただ一人愛する女を見詰める長政の目は、の嫉妬心をこれでもかと煽った。
長政の前では表情を取り繕い、態度を慎み、己の内に巣食う邪な念を押えこんできた。
しかし、それにも限界がある。
次第に痩せ衰え、病床に伏せたを、長政は何と直々に見舞ってくれた。
愚かしいと卑下しつつ、例外とも言うべき厚遇に、はどうしても期待してしまう。
対して、長政は持参の風呂敷包みを解かせながら心安く笑って言った。
――市が、女子の身で武に携わるに、甚く感心して居てな。
照れたようにほんのりと頬を染めて笑う長政に、は打ちのめされた。
市の心尽くしの品を見舞いと称して置いて帰った長政に、は声を殺して号泣した。
女とは言え家督を継いだ身である。弱いところは見せられない。
だから、一人で、声を殺して泣くしかなかった。
苦しくて、悲しくて、女の身に生まれたことを呪ってしまう。男に産んでくれなかった父母に、それこそ呪詛の言葉を容赦もなく投げ掛けた。市のように美しく生まれなかったことに、ただの家臣である身の上に、枕を噛んで泣き伏し続ける。
泣いて泣いて、一晩も二晩も泣き続けて、はようやく踏ん切りを付けた。
浅井の家臣として生き続ける決意をし、自分の女を封じ込めよう。
直系の血筋は途絶えてしまうけれど、親戚筋から養子をもらえばいい。
数少ない理解者の一人である叔父に頼み、まだ幼い三男坊を養子に迎える手筈を整え、自身は生涯一人で居ると定めた。
戦の神は不浄を嫌うと聞く。
女は不浄と嘯く者も居るけれど、ならば自分は男以上に清廉であろう。身を慎み、穢れぬまま、戦場の華と散ろう。
非壮と言うよりろくでもない、自分勝手な思い込みだったが、は己の身の上をそう定めることで平静を取り戻したのだった。
それを揺さ振ったのは、やはり長政だった。
遠呂智の所業により統一された二つの世界に、束の間の平和が訪れたものの、異界と化した世界が元通りになるわけでもない。
世の無常を感じたのか、長政はを呼び付け、柔和な笑みを浮かべて切り出した。
婿を取らぬか……と。
の表情が強張るのをいなすように、長政は言葉を続ける。
このような世の中である。明日にも何が起こるか分からぬ世情である。女として生まれたからには、女としての幸せを掴んで欲しい。が良く尽くしてくれるから、気を回そうともしなかった愚暗をどうか許してもらいたい。今からでも、相応しい相手を探させて欲しい。無論、家督はが守ることで構わぬし、それでいいと納得する相手を探そうから、云々。
心が冷えると視界も凍える。
外界との繋がりが一気に希薄になるのだと、は理解した。
所詮、人は一人なのだ。
恋うる相手は、自分が何をどう思って生きているかも分からぬ人なのだ。
醒めた。
「婿を取るようお勧めいただくのでしたら、一つ、お願いがございます」
言葉を断ち切られた長政が不思議そうに首を傾げる。
臣下の非礼に腹を立て、いきなり切り捨ててしまうような、本当に愚暗な方なら良かったのに、とは哂った。
以前戦場で見えた、さる武人のことが忘れられない。
だから早い隠居を許して欲しい。あの方を追える自由を与えて欲しい。
の申し出に、長政は驚きを隠せなかった。
慌ててを止めようと説得に掛かる長政に、は晴れ晴れとした笑みを浮かべて言い放つ。
「振り向いてくれないくせに、次の恋を邪魔しないで」
その時の長政の顔を、何と表現していいか、には分からない。
武一筋に生きて来て、詩だの歌だのにはとんと疎いであったが、この時ばかりは己の不勉強を少しばかり恥じた。
もう少し、それなりの心得でもあれば上手く言うことも出来たかも知れない。
作り話に紛れた無様な告白を終え、はただ笑った。
泣きながら、笑った。
長政に返す言葉はなかった。
「行くのか」
見送りは長政ただ一人だった。
他の見送りはどうか、と説き伏せて遠慮してもらった。
の懇願を頑として受け入れなかった長政だけが、だからこうして見送りに来ている。
「行きます」
本当に困った方だ。頑固で、融通が利かなくて、でも愛おしいまでに一途な人だった。
は馬の腹を蹴り、荒涼とした大地を駆けだした。
さよならは、胸の内で済ませた。
今度こそ、積年の恋を終わらせられたような気がした。
終