もうこの唇に触れるものはない



 小次郎の唇はぬらぬらとして赤く、ほんのりと暖かかった。
 紅をぽってり塗り込んだ唇は、見るからに冷たそうだったのに、実際に触れてみると違っていた。
 その差に違和感を覚え、しかしその違和感こそが小次郎と自分を隔てている証であると思えた。
 違うということは触れ合えるということだ。
 小次郎の手になりたいと言ったを、小次郎は薄気味悪そうに見たものだ。
「僕の手は、僕の手だよ。何でが、僕の手になるのさ」
 は一人の女の子で、こうしてちゃんと手も足もあって、こうして……と小次郎はをぺたぺた触りまくった後に口付けを落とした。
「……接吻も、出来るだろう? 分かる?」
 正直、分からない。
 いつも一緒に居たいと言うを納得させようとしてした行為だということは分かるが、どう納得していいかはまったく分からなかった。

 二つの空が溶け合ってから、を守っていた父も兄も頼もしい武将達も散り散りになった。
 魏王の姫という立場は、を追わせこそすれ守るものには当たらず、絶体絶命の危機を救ってくれたのは小次郎だった。
 綺麗だったから、僕が綺麗に切ってあげなくてもいいと思った。
 小次郎の言うことは訳が分からない。
 理屈に収まらない理屈だったが、は言及しようとはしなかった。
 小次郎の言葉には、詩が潜んでいるように思えた。
 自分が分からないから解説させようとするのは、どうにも筋が通らぬという気がしたのだ。
 そのせいかどうなのか、小次郎はを自分の手元に置くようにしてくれた。
 立ち位置のよく分からない小次郎だったが、一応遠呂智軍に参入している、ということになっているようだ。 もっとも、小次郎がそんな瑣末なことを気にしているようには見えなかったが。
 ともかく、一応遠呂智軍ではそれなり腕も立つ小次郎が、自分の名を出して守ってくれていたお陰で自身に危害が及ぶことはなかった。
 曹操の娘と言っても、数多い妾の娘の一人だ。姉や妹の数を数えるのも大変なくらいで、妾の中でも下位に居る母だったから、正直言ってに利用価値はない。
 その点を妲己がどう理解したのかは分からないが、手出しされることもなく、は小次郎の『持ち物』として庇護を受け、曲がりなりにも人並の生活を送っていた。
 有難いと感謝したことはない。
 けれど、小次郎の傍に居られるのは嬉しかった。
 小次郎が居ると楽しくて、話をしているとふわふわとした気持ちになる。
 実りのある会話とは言い難かったが、小次郎の真っ黒な瞳に自分が映るのが誇らしくて仕方がなかった。
 が、自分が小次郎に恋をしていると気付くのに時間は掛からなかった。
 小次郎が気付くとも思えず、気付いたところでが想像する恋人同士の睦まじい付き合いが出来るとも思えない。
 それでも、いいと思っていた。

「じゃあ、行ってくるね」
 小次郎が、何でも昔からの馴染みの噂を拾ったと言ってはしゃいでいたのは昨夜のことだ。
 今朝になって、身軽く出立の準備を整えた小次郎は、武蔵を斬って来ると嬉しそうにに告げた。
「武蔵を斬ったら、にどんな風だったか教えてあげる。……あぁ、ぞくぞくするなぁ。楽しみだなぁ」
 見るからに浮かれている小次郎は、ふとを振り返ると、口付けを落としてきた。
「……ちゃんと、待ってるんだよ?」
 こく、と頷きながら、今の口付けは何だったのだろうとぼんやり唇に触れる。
 嬉しかったから、武蔵という人を斬ったら、もう一度してもらえないかな、とこっそり考えた。
「じゃあね」
 小次郎を見送り、は室に戻る。
 そのの体が、突然何者かに抑え込まれる。口は素早く塞がれていて、声を立てることもできない。
「お静かに、様」
 横目で見れば、遠呂智軍内でも数少ない人間の武将だった。
「貴女を、お救いして差し上げます……我等と共に、曹操様のところへ参りましょう」
 いかにもいいことをしてやると言わんばかりだが、の救出を手土産に自分達の裏切りを見逃させようという意図が見え隠れしている。
 遠呂智に進んで協力した武将達は、平穏に戻ろうと希おうが石持て追われる身の上となり、結局遠呂智軍に頼るしかなかった。その上、人間であるということで遠呂智軍の中でも肩身が狭い。何とかして人側に戻りたいと策を模索していても不思議はなかった。
 苦境は理解できるが、が協力するいわれもない。
 嫌だと首を振ると、口を押さえる手にぐぐっと力が篭められた。
 拒否は許されない。
 には最初から選択権などないのだ。
 それでも懸命にもがいていると、偶々なのか、遠呂智の兵が通り掛かった。
「き、貴様、何をしている!」
 咎める声は動揺で震えていたが、背後から自分の所業を見咎められた男の動揺はそれを遥かに上回っていた。
「違う、俺は、こ、この女が逃げようとしていたから……!」
 それは違う、と抗議しようとしたは、視界を銀色に塞がれた。
 鍛え上げられた太刀が上段から振り下ろされ、にそれを避ける術はなかった。
「逃げようとしたから、こ、この通り、この通り……」
 遠くから男の声が聞こえてくる。
 喚き散らしているようなのに、本当に遠くから聞こえてきて、終いには何を言っているのかも聞こえなくなっていった。
 視界は紅に染まり、それも次第に霞んでいく。
――やっぱり、小次郎の手になりたかった。そうしたら、ずっと一緒に、さっきだって一緒に連れて行ってもらえたかもしれないのに。
 かつて小次郎が触れた唇に触れようとするが、の指は動いてくれなかった。
 冷たくなった唇は、微かに蠢いて後、永久に動かなくなった。

 武蔵と徐晃に打ち倒された小次郎は、悪びれることもなく同行を申し入れた。
 元々、遠呂智に縁があって身を寄せていた訳ではない。
 それに、どうせ斬るのなら遠呂智軍の方が可哀想で仕方ないから、早く斬ってあげた方がいいと思う。
 小次郎の理屈はともかく、武蔵の口添えが功を奏し、小次郎は対遠呂智軍に迎え入れられることとなった。
 一度遠呂智の拠点に戻りたいと言う小次郎に、理由を尋ねた徐晃は目を剥いた。
「何と、殿が、そんなところに捕らえられて居ようとは……これは、捨て置けぬ!」
「うん、そう、はね、とても綺麗で可愛いよ」
 意気込む徐晃の肩の力が抜けてしまう。
 小次郎は何を思ってか、遠くを見詰めてにっこりと微笑んだ。
「会いたいなぁ……未だ少ししか離れていないのに、どうしてこんな風に、すぐにでも会いたくなるんだろう? 武蔵、君に会いたいのは君を斬りたいと思うからだけど、斬りたくないに会いたくなるのはどうしてなんだろうね?」
「知るか」
 つれない武蔵に唇を尖らせた小次郎は、しかしすぐさま視線を戻した。
「会いたいなぁ」
 紅を塗った唇に、小次郎はそっと指先を這わせる。
 小次郎は、未だ知らなかった。
 もうこの唇に触れるものはない。

  終

(お題提供:確かに恋だった様)

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