本気の恋は叶わないって、あの人が言ったから
「伯約は、キープなの」
その言葉の意味を、姜維は理解出来ずに居た。
偶然通り掛かって見掛けた恋人の口から出た、自分のことと思しき言葉。
恐らくは、彼女が居た国での言葉なのだろうが、生憎姜維には理解出来ない。
相槌を打っていた星彩にも、やはり理解出来ない言葉だったらしく、『きーぷ?』と聞き返していた。
「そう、キープ。本命じゃ、ないの」
息を飲む。
一気に世界が暗くなり、足元が覚束なくなった。
たった一言ではあるが、聡い姜維には『キープ』の意味するところが即座に理解される。
つまり、本当には愛していないということだ。
話し込んでいる二人に気付かれないように戻るのが、精いっぱいだった。
それから後は、執務が手に付かず、諸葛亮にさえ溜息を吐かれてしまう始末だった。
諸葛亮が落胆を露骨に態度に示すことは珍しい。
それだけ、姜維の失態に幻滅したということだろう。
「申し訳、ありません……」
謝罪して許されることではないが、深々と頭を下げて陳謝する姜維に、諸葛亮は何事か感じ取ったらしい。本日は早めに切り上げるよう、申し渡された。
「今日の内に、原因を改善なさい。明日からは、常の貴方に戻られるよう。いいですね」
命令とも取れる労りの言葉に、姜維は涙ぐみながら室を辞した。
理由が自分自身にあればまだしも、そうでないものを如何にするべきか。
諸葛亮の言葉は、姜維にとって有難くも重いものだった。
室に籠ってうだうだとしていると、当の原因がひょっこりと顔を出す。
驚いて声も出ないが、家人とも顔馴染みになったの出入りを、今更禁ずることも出来る筈がない。そんなことをして理由を問われても、正直に話せることではないからだ。
が本当に愛しているのは別の男だ、などと、どうして言えよう。
男としての矜持もあるが、何より、愛する女が実は自分を愛していないという衝撃の方が遥かに大きかった。
口にすれば、現実として認めざるを得なくなりそうで、どうしても言うに堪えない。
苦悩する姜維の様に、も何か感じ取ったようで、黙って姜維の隣に腰掛ける。
「……ご飯、食べてないんだって?」
沈黙の重さを打ち払うように、が当たり障りのないことを切り出してきた。
心遣いは有難いが、同時によくも抜け抜けと、と悔しさから腹立たしくも感じる。
相反する感情がないまぜになり、憤って膨れ上がり、破裂しそうになる。
――今日の内に、原因を改善なさい。
諸葛亮の言葉が蘇り、姜維は抑えていた感情を手放さざるを得なくなった。
有体に言って、キレた。
「よく、そんなことが言えますね!」
突然怒鳴られ、は目を瞬かせた。
姜維に怒鳴られるなど、思ってもみなかったに違いない。その可能性があることすら失念していたかもしれない。
姜維は、常にを大切に、優しく扱う。
まるで壊れ物を扱うようだと、自身が照れながらも口にしていた程だ。
予想外の出来事に、が驚き、怯えているのが分かる。
そのことも、姜維の悲しさ、やりきれなさを怒りに転じさせていた。
「……私は、聞いたのですよ。貴女が、星彩殿と話していたのを……!」
「せ、星彩と、何?」
未だしらばくれるつもりかと、姜維は情けなくなる。
どうしても、私の口から言わせたいのか。
ならば、言ってやろう。
言って、終わりにしてやろう。
「星彩殿に、貴女が、私をきーぷだと、そう言っていたのを……私は、聞いて居るんですよ!」
「……その後は?」
言ってしまった、と思う間もなく、から突っ込みが入る。
「……その後?」
「そう、その後……聞いてなかった、の?」
聞いてない。
の口ぶりからして、酷く重要なことのようだが、姜維には理解出来ない。
『きーぷ』が『本命ではない』という意味なのは、自身が口にしたことだ。
そんな惨い言葉に続けて聞かなければならなかったこととは、いったい何だ。
黙りこくっているのを肯定と取って(事実その通りなのだが)、は深々と溜息を吐きつつ、教えてくれた。
「……あのね。あの後、星彩と話しててね。本命居ないのにキープって、意味ないじゃないかって、盛り上がってたの」
本命が居ないのに、キープ。
どういうことだ。
本気で理解出来ないで居る姜維に、は頭を掻いた。
「……あのね。人のせいにするみたいで、アレなんだけど……。孔明さまが、ね。本当に好きな人、つまり、本命ね。本命の人との恋は、叶わないものですよって、私、そんな話聞いててね。だから」
本気の恋は叶わないって、あの人が言ったから。
「……だから、私は本命ではない、と?」
は居心地悪そうに足を揺らしている。
ばつが悪いのだろう、尖らした唇は、不機嫌そのものだった。
「だって、思いが叶っても邪魔が入るとか、ハッピーエンドには収まらないとか……まぁ、確かにそう言われればそうかなぁって思い当たる節もあって。何て言うの、言霊? だったかな? 忘れちゃったけど、浮かれて調子乗ってると、すぐに駄目になっちゃうって。だから、本命じゃないんだって、自分をセーブしといた方がいいって、そんな風に言われてて、でも私、すぐ調子乗って盛り上がっちゃうし」
ところどころに分からない言葉が混じるものの、要するには、姜維が好き過ぎる自分を抑えたくて、敢えて姜維を『キープ』と称することで自らをいさめていたらしい。
それと分かった途端、姜維の体から力が抜け落ちた。
ずぶずぶと沈んでいく姜維に、しかしも掛ける言葉がない。
まさか、あの一瞬、あの一言だけを抜き出して聞いていたとは、夢にも思わなかった。
星彩から、『それはきーぷではなく本命と言うのではないか』と突っ込みを受けたのはすぐのことだったし、自分の態度など抑えて居ても抑え切れていないという変な自信があったのだ。
諸葛亮が言いたいのは、こういうことだったのかもしれない。
好き過ぎて、相手をきちんと見て取れなくなる危険を教えてくれていたのだとしたら、今こそはっきり理解できる。
何と他愛もなく、阿呆臭い話だろう!
こんなことで別れる羽目になったら、は死んでも死にきれない。
「伯約、伯約は、私のこと、キープにしてね。私も、そうするから」
顔を上げた姜維は、実に情けない顔をして眉を顰めた。
「……わ、私には、だけです。だけなんです」
「そんなの」
当ったり前でしょ、と吐き捨てるに、姜維はようやく微笑みを見せた。
終