※死にネタです。お嫌いな方は見ないようにお願いします。


この恋を捨てさせないで



 おかしな戦だ。
 最初から有利で、有利に運び過ぎて落ち着かなくなる。
 あっという間にけりが付き、勝利はまず間違いなく決しようとしていた。
「このようなことが、あるのですねぇ」
 馬岱がそんな呑気な感想を漏らす通り、何の苦労もなく勝利を掴んだ。
 珍しいには珍しいだろうが、戦は所詮人が為すことだ。思わぬことも積み重なろう。
 こんなこともあるものかと、馬超は首を捻りながらも納得することにした。
 脇の茂みががさりと音を立てる。
 油断した将を狙う為の作戦だったか、などと咄嗟に閃くが、茂みから現れたのは何のことはない、馬超配下のだった。
「どうした」
 そういえば、戦の最中にも顔を見掛けなかったような気がする。
 隠密行動が得意なであったから、交戦中に顔を見せなくても不思議はない。
 けれど、今回に限ってはあまりに見掛けなさ過ぎたような気がした。
「孟起様」
 微笑みを浮かべて馬超を見上げたと、馬超の目が合う。
 次の瞬間、の体はくらりと揺れて大地に倒れ伏した。
 力の篭もらない体が、地面で跳ねて横に転がる。
 前からは見えなかった脇腹の辺りに、大きく黒い染みが浮かんでいた。
「……!?」
 馬超は素早く馬を降り、その腕にをしっかと抱え込んだ。
「どうした、誰にやられた……!? しっかりしろ、!!」
 懸命に呼び掛けるも、既には絶命していた。
 馬超の顔を見て、安堵してしまったのだろう。
 腕の中で冷えていくを見下ろし、馬超は呆然とするより外なかった。
 背後から、わっと沸き立つ声が響く。
 見遣れば、急報を携えた使者の馬が駆け寄ってくる。
「馬将軍! 諸葛亮軍から、火急のお報せでございます!」

 少し時を遡る。
 戦が始まってすぐ、は戦場からその身を隠した。
 普段使っている兵士にも、特別任務により単独で動く旨、既に厳命してある。
 こなすべき特別任務の性質故、誰にも漏らしてはならないと言い含めておいたが、日頃から念入りに可愛がっている兵士達がの言を疑うことはなく、誰一人として違和感を覚えることもなかった。
 そういう風に仕向けてきたのは、に与えられた『特別任務』の為だった。
 埋伏の毒は、如何に人の信を得るかに掛かっている。
 とはいえ、素直な性質の馬超並びにその兵を丸めこむなど、にとっては赤子の手を捻るよりも易いことだった。
 の元に密書が届いたのは、この戦が始まる直前のことだ。
 ついにその時が来たと告げる内容だった。
 密書は、読み解かれてすぐに火にくべられる。
 爆ぜる竹簡に記された墨の文字が、見る間に炎に焼かれて消えていく。
 炎を見詰めるの目には、ただただ炎の金が映し出されていた。
 特別な感情など何もない。
 そうする為に過ごしてきた場所だ。
 すべては密書に記された通り、時を見て軍師たるあの男の命を奪うのみ。
 頼れる味方として記憶に焼き付いた顔が、敵として斬り掛かってくる恐怖は、言葉で語られるより遥かに凄まじい。
 それ故になかなかどうして成功させられる策略ではなく、それを敢えて依頼されるには、軍師からの信頼の厚さが伺える。
 敵にも味方にも見つからぬよう、死角を見出して駆ける。
 駆けて駆けて、はようやく目的地に到達した。

 驚いた顔が、を凝視している。
 がやるべきことは一つだけだった。
 緩く笑みを浮かべて相手の警戒を解き、すすっと足を忍ばせる。
「実は、早急にお耳に入れたきことが」
 のこの一言で、相手の警戒心は解け切った。
 自ら歩み寄ってくる人に、は嬉しげに笑みを浮かべる。
 獲物が喉首を晒して近付いてくれるのだ。
 嬉しくない訳が、なかった。

 諸葛亮軍の報せとは他でもない、勝利を決定すべく、馬超軍に敵を掃討せよとの軍師からの直命であった。
「完膚なきまで敵をねじ伏せ、悉くを蹂躙し、我が軍の強力なること、敵の心底に刻み込めとのお申し付けにございます!」
「……よし、分かった! 軍師殿には、その任、確かにこの馬孟起が賜ったとお伝えせよ!」
 敵に恐怖を刻みつけるのもまた、戦においては重要なことである。
 その任を申し付けられるということは、即ち諸葛亮が馬超の軍こそ最強であると認めたも同然の栄誉だった。
 馬超は腕の中のの亡骸を見詰め、一度強く抱き寄せた。
「行ってくる。俺が戻るまで、待っていろ」
 互いに打ち明けた訳ではないが、互いに想っていることは明らかだった。
 傍らに立つ馬岱には、馬超の胸の内が痛い程に分かってしまう。
「誰かある! を、頼む。俺が戻るまで、何処か、静かな場所で寝かせてやってくれ!」
 すぐさまの配下が駆け寄ってきて、亡骸を押し戴くように預かる。
 それを見届けて、馬超は再び騎乗した。
「行くぞ!」
 号令と共に、馬超は、馬超の屈強な兵は、浮足立つ敵陣へ容赦の欠片もなく傾れ込んだ。

 諸葛亮は物憂げに、戦場を見下ろしていた。
 高台に設えられた物見台からは、戦場のほとんどが一望できる。
 白扇を扇ぎながら、記憶の淵に沈んでいた。
 が自ら埋伏の毒であることを告げたのは、戦が始まろうとするまさに直前の時だった。
 驚きを押し隠し、冷たい双眸を向ける諸葛亮へ、は豪胆にも微笑んで見せた。
 この戦で埋伏の毒を完成させることになった、ついては、それにはまった振りをしてもらいたいというのが、の申し出だった。
「裏切るつもりですか」
「はい」
 何故、と無粋なことを聞くつもりはなかった。
 は、一族を人質に取られていること、だから下手には裏切れないことを明かした。
「敵の軍師が、私の主です。……戦のどさくさ紛れに討ち取って参りますから、その後、殲滅戦を仕掛けていただきたい」
 それであれば、の裏切りも露見することはまずない。
 単に策の一つが潰えたことになり、一族の者が無為に命を落とすこともないだろうというのが、の目論見だった。
「ですが」
 諸葛亮の言わんとすることを、は悲しげに笑うことで止めた。
「……裏切りを、許してくれるような人ではないでしょう。許してくれたところで、傷付けるのは変わりない」
 馬超に知られれば、馬超を永遠に悩み苦しませることになる。
 一途な男だから、許そうとして許せない自分自身をも憎むだろう。
「それでは……意味がないのです」
 馬超の中のは、薄汚い裏切り者などではなく、少し生意気だが頼りがいある忠実な部下であらねばならない。生きている間も、死んだ後も、ずっとだ。
 この恋を捨てさせないで。
 その為であれば、死ぬことなど怖くはないから。
 沈黙と死後の栄誉。それだけがの望みだった。
 果たしては約定を果たし、諸葛亮もまた、約定を果たそうとしている。
 馬超に与えた栄誉は、おまけのようなものだ。
「……恐ろしいものです」
 諸葛亮の傍らで戦況を見守っていた月英が、不思議そうに諸葛亮を振り返る。
 笑って流させ、諸葛亮は再び物憂げに白扇を扇ぐ。
 一人の女の情でさえ、平気で戦に流用しなければならない軍師としての業が、今日程呪わしく思えたことはなかった。

  終

(お題提供:確かに恋だった様)

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