「聞いて! 聞いて!!」
 が騒がしいのはいつものことだし、殊、陸遜に絡む時は尚やかましい。
 数少ない親族の生き残りということもあり、中でも二人は極近い血縁にあることもあり、更に年が近いと言うこともあり。
 但し、の方が幾らか年上というせいか、の陸遜への対応は甚だ大雑把である。
 この日も、朝も早から大騒ぎだ。
 宿舎でもこの調子なものだから、新兵の視線はかなり痛い。
 今日は運よく陸遜の邸内でのことだから、背中がむず痒くなることがなかったのは救いだった。
 井戸の傍にも、幸い他の人影はない。
「……何ですか、姉」
 冷静に、洗ったばかりの顔を手拭いで拭う。
 元より整った顔が、朝日の光を浴びて輝いてさえ見えた。
「今日も美人だね、伯言!」
「……戯言は結構です。何事かと訊いているんです」
 いい加減、陸遜もこの騒がしい従姉の扱いには慣れている。
 うんうん頷いて同意しつつ、さり気なく話を進めてやらねば始まりさえしないのだ。
「あ、そうそう。聞いて! 変な夢見ちゃった!」
 如何な陸遜とはいえ夢見の知識は浅薄と言わざるを得なかったが、の知識はもっと浅かろう。
 それで訊ねて来たのかと思いきや、そうではなかった。
「いや、私があんたと寝ちゃってる夢なのよ! ヤッちゃってんの!! 笑っちゃうでしょ!?」
 笑っちゃうでしょと振っておきながら、は一人げらげら笑う。
 悪夢だったので、人に話してやろうとわざわざやって来たものらしい。
 それにしても、当のお相手に言うべきことだろうか。
 さしもの陸遜も、頭痛を覚えた。
 ある程度の笑いが収まるのを待って、陸遜は静かに口を開く。
「……で? お相手を務めた私に直接、わざわざご報告にいらっしゃったのですか」
「ん? いや、だってさ」
 そこでようやく照れ臭そうに、はぽりぽりと頭を掻いた。
「黙ってたら、何か、あんたとの仲もぎくしゃくしちゃいそうでさ。だからとっとと話して、ぱーっと笑い飛ばしちゃおうかと思って」
 なりに、陸遜との気安い関係を大切に思っている。
 性格が雑だと分かっているからこそ、腹に一物溜めては付き合っていけないと踏んでいた。
 どんな些細なことでも、陸遜にだけは隠し事はしない。
 それが、なりの信義だった。
 対して、陸遜は不機嫌そうにじっとを見詰めると、無言で踵を返す。
――あれ。
 さすがに話が露骨過ぎて、怒らせてしまったかと陸遜の後を追う。
 陸遜は無言のままだが、嫌なら嫌と言うだろうから、はひたすら後を追い続けた。
 追って追って追い続け、陸遜は自室に戻る。
 続いてが室に入ったのを見届け、扉を勢い良く閉めると、くるりとに向き直った。
「笑えません」
「……だよね」
 ごめんごめんと苦笑するを、陸遜はまだ納得いかなげに睨んでいる。
 いい加減、少ししつこいように感じた。
「何」
 いらっとした感情が滲み出るのを見取ったか、陸遜は大きな溜息を吐いた。
「夢じゃ、ありませんから」
「へ」
 たっぷり百を数える間、は硬直したまま立ち竦んでいたと思う。
 その様を見届けて、陸遜はこれまた盛大な溜息を吐いた。
「……ずいぶん酔っていたから、自分を見失っているんじゃないのかと思ってはいたんですよ。でも、姉、本当の本気だ、絶対嘘じゃないからって、私が止めても聞かなかったじゃないですか」
 ということは、が押し倒したも同然だったようだ。
 はざっと一気に青ざめる。
 やってしまった。
 昨夜の宴会で、しこたま呑んだのは覚えている。
 だが、目覚めたら自分の家だったし、素っ裸で寝ているのは宴会明けにはよくあったしで、おぼろげな記憶を夢ではないと判断するまでには至らなかった。
「……あー……ご、ごめ……」
「謝らないでいただいて結構です」
 ぴしゃり、と取り付く暇もない。
 これは、出直して対策を講じて来た方が良いかと考えていると、不意にの体が浮き上がった。
「へ」
 将の中では小柄な陸遜が、を引き摺ってずんずんと歩いている。
 ここら辺は、やはり陸遜も男の端くれなのだ。
 惜しいことをしたかもしれない。
 一度きりの過ちならば、せめて記憶に焼き付けておけば良かった。
 そんな不埒なことまで考える。
 ぽいっと投げられ、受け身を取る前に体が沈み込んだ。
 気付けば、寝台の上だ。
 陸遜が覆い被さって来るのを、は夢の続きのように感じていた。
「ちょ、ちょっと」
「……夢などと、誤魔化されたりしては堪りませんから」
「だって」
 うるさいとばかりに口を塞がれ、は目を白黒とさせる。
――だって、私でいいの?
 仕方なく、は胸の内で叫ぶ。
――あんただって、私のこと、いつもうるさいとかやかましいとか、女扱いしてなかったくせに。その方が楽だって、気を遣わなくて良いけどって、言ってたくせに。
 だからずっと、好き、なんて言えなかったのだ。
 陸遜が唇を離し、は大きく息を吐き出した。
 熱が肺に籠もってしまったようで、眩暈がして、とにかくわたわたと暴れ続けた。
「……夢なんかに、しないで下さい」
「……だっ、て」
 回らない舌を制して、必死に言葉を綴る。
 何に抗っているのか、半ば分からなくなっていた。
 が。
「好きです」
 陸遜の一言に、の抵抗はぱたっと止む。
 同時に、の顔がぱっと赤くなった。
「……うん……」
 それなら、いい。
 陸遜が、を好きだと言うなら、それなら構わない。
 体の力を抜いたに、陸遜は優しく微笑む。
 そして、ひょいと体を起こした。
「……では、そういうことで」
「……へ!?」
 すっかりその気になっていたのに、何なんだ。
 ちょっと待てよと体を起こしたに、その表情から察したものか陸遜はからから笑う。
「駄目ですよ、姉。もう、仕度をして職務に入らねばならない時間です」
「って、言ったって!」
 更に文句を募ろうとするに、陸遜は頬が触れる程顔を近付けて寄越した。
 勢い、の顔が赤く染まる。
「夜になったら、ここへ。いいですね」
 どうしようもなくて、こくりと頷くに、陸遜はよしよしと頭を撫でた。
 面白くない。
 むっと膨れるを残し、陸遜は室を後にした。

 その夜、は陸遜に騙されていたことを知る。
 よくよく考えれば、男を知らないが事に当たって何も覚えていない筈はないのだ。
 仮に覚えていなくとも、『行為』の『残滓』は残って然るべしだったろう。
 結局、嘘でなかったのは、陸遜の気持ちくらいだった。

  終

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