※現代トリップ

「曹操さん、明日、一緒に出掛けましょう」
 いつもは誘い掛けの形で話し掛けてくるが、珍しくぱっきりと言い切った。
 曹操に否やはない。
 電車というものがどんなものかは知らなかったが、が曹操に対して無理な強要をする訳がないという思いもある。
 そんな考えが間違いだったことは、すぐに知れたのだが。

 比較的、ではあったが、曹操は珍しいものや新しいものには目がない。
 とは言え、それが体感に酷く訴えかけるものとなると、どうも話は別だった。
 強靭な精神力の持ち主と言えど、さすがに千八百年前の人間が、いきなりハイテク塗れの現代世界にぽんと放り出されると、異様な眩暈に晒される羽目になる。
 の庇護を受けつつも、どうしても室内に閉じこもりがちだった曹操には、初めての電車は鮮烈と言うよりは激烈と言うべき衝撃体験だった。
 勝手に動く長い階段を降りた先には、狭苦しいが眩しい程明るい世界が広がり、凄まじい轟音と共に閃光を放つ巨大な蛇が向かって来た時には、指先が愛用する倚天の剣を求めて宙を切った(持ち歩く訳にはいかないと言われて、置いて来てしまっていた)。
 の手がその手を握り、にっこりと破顔して曹操を見上げる。
 大丈夫だとなだめているようでもあった。
 ならば……が言うなら……大丈夫なのだと、曹操はそこで腹をくくる。
 風を巻き起こして開いた扉を怖々と潜ると、中は更に眩く明るかった。
 左右にずらりと並んだ椅子に腰掛けるよう指示され、おとなしく従った。
 扉が閉まるとやや不安な感情に襲われそうになるが、見ればのみならず、他に見られる者達にも何ら動揺は見られない。
 電車についての説明は一応前もって受けていたので、曹操もようやく落ち着いた。
 混乱して泣き叫ばないだけでも十分胆が据わっていると言えるのだが、わずかでも動揺したことに、曹操は少しばかり自己嫌悪に陥る。
 ごう、と凄まじい音に混じって、ガタンゴトンと規則正しい音が混じる。
 音が大き過ぎて、他の音がほとんど聞こえなかった。
 は曹操の手を繋いだまま、口を閉ざして静かに座っている。
 曹操も、それに倣うことにした。
 何もすることがないから、凄まじい音に耳を澄ます。
 不思議なことに、小さかった筈の『ガタンゴトン』という音の方が耳に響いて来るようになった。
 これは何の音なのだろう。
 後でに訊ねてみようか、と、目を閉じて音に神経を集中する。
 ガタン、ゴトン、ガタン、ゴトン。
 繰り返し繰り返し、時折『駅』に停車することはあっても、電車が走り出せばその音が鳴り響く。
 単調な音の繰り返しは、鼓動にも似ているような気がした。
 ガタン、ゴトン、ガタン、ゴトン。
 慣れてさえしまえば、程良い揺れと相まって心地よい感覚すら覚える。
 不思議なものだ。
 曹操はいつしか、眠りに落ちていた。

「……さん。曹操さん」
 揺り動かされ、曹操は目を覚ます。
 途端、目を刺す眩い光に顔を顰めた。
 反射的に顔にかざした手の向こうに、光輝く何かがある。
 よく見れば、川のようだった。
 否、川にしては向こう岸が見えない。
 果てしなく広がる輝く水面は、緩い弧を描いているようにも見えた。
「次、降りますよ」
 いつの間にか、地下から地上に出ていたらしい。
 凄まじい音は幾らか小さくなっており、代わりにガタンゴトンという例の音が良く聞こえていた。
 電車を降りると、生臭い香が鼻を突く。
 に従って小さな紙片を箱の中に投げ入れ、無人の駅を抜けると、松並木が視界一杯に広がっていた。
 ほとんど立ち止まることもなく、は松並木を抜けて歩き出す。
 手を繋がれたままの曹操も、逆らうことなくの後を追う。
「う」
 松並木を抜けると、先程の眩しい光が再び曹操を襲った。
 ざざん、と大きな波が寄せては返す。
 鼻を突く生臭い香りは、一段と強く漂っていた。
「海ですよ」
 曹操を振り返り、微笑むが指差す。
 どこまでもどこまでも果てのない、広大な水たまりがそこにあった。
「……おお」
 感嘆の声が漏れる。
「これが、海か……!」
 光を弾く水面同様、曹操の目も輝いていた。
 は、そんな曹操を見て、満足げに微笑む。
「見たことがないって、本に書いてあって。だから」
「……そうか」
 千八百年の歳月は、どうしても曹操との間に立ち塞がる。
 どれだけ良くされても、感謝の言葉を示しても、二人の間にある事実は打ち消しようがなかった。
 しかし、はそれを事実と認めることで曹操との距離を縮めて見せた。
 本で調べたとさらりと言ってしまうが、どれだけその言葉の意味を認識しているかは分からない。
 けれど、曹操にとっては至極有難かった。変に気を使われるよりは、ずっといい。
 曹操は、後ろからを抱き締めた。
 はちらりと曹操を振り返ったけれども、何も言わずにその背を預けてくる。
 互いに互いの温もりが伝わり、二人を包む日差しの光が両者を同時に温める。
 その熱は、何がどうあれ今は二人が共に在るのだと強く感じさせてくれた。
 しばらく時を忘れて海に見入っていたが、ふと、が空を見上げて言った。
「電車、慣れました? もう、大丈夫です?」
「うむ」
 眠ってしまうくらいだ、慣れたと言わず何と言おう。
 それに、がこの手を引いてくれるのであれば、何も怖じるものではない。
 今も繋がれたままの手は温かく、優しかった。
 曹操が、そう言えばあの音の正体はと思い返して訊ねようとするが、が先に口を開いていた。
「良かった」
 大きく腕を伸ばし、空を指差す。
「じゃ、次はあれに乗りましょうね」
 もっと色んな海を見せて上げたい。
 透き通るような青い海。
 氷で閉ざされてしまう冷たい海。
 だから、あれに乗りましょうね、と続けられ、曹操はの指を辿って空を見る。
 そこには、真っ白い鳥と見紛う何かが飛んでいた。
 ずいぶん高いところを飛んでいるらしいことは、気配で何となく察せられる。
「飛行機って言うんですよ」
「………………」
 曹操は、『飛行機』の描く軌跡を目で追う。
 手には知らず知らずに力が篭り、心なしか汗が滲む。
 さすがの曹操も、空を飛んだことはない。
 先程の電車と比べても、格段上の試練と言えた。
 如何にが添うてくれるとあっても、これは無理ではないか。
 が曹操を振り返る。
 答えを待っているようだった。
「……うむ」
 曹操が頷いたのを見て、は微笑む。
 心の底から嬉しそうな笑みだった。
「大丈夫です、曹操さん」
 ずっと、手を繋いでいますから。
 その言葉を聞いて、強張っていた手の力が、ほんの少し抜けた。

  終

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