は、遠呂智軍に二重三重に囲まれ窮地に立たされていた。
 囚われた将が護送されると聞き及び、自ら偵察を買って出ておきながらこのざまだ。
 罠の可能性も念頭に置いていたくせに、うかうか囲まれた自身の手際の悪さに絶望する。
 傷付けられた矜恃と抑え難い羞恥に駆られ、の焦りは加速していく。
 冷静にならねばと思えば思う程、鼓動は早く視界は狭くなっていった。
――もう、駄目か。
 が所詮偵察であることは、先方も端から承知の話だろう。
 捕らえて、本隊の位置を吐かせるつもりだ。
 そんなことはさせられない。
 ただでさえ遠呂智に壊滅的な打撃を受け、散り散りになってしまった心許ない軍だ。
 この上、うかうか遠呂智の襲撃を受けては堪らない。
 は死を覚悟した。
 ざん。
 風が駆ける音と共に、大きな影が地に焼き付く。
「……うわ」
 小さな悲鳴が招き込んだかのように、遠呂智軍にとっての『災難』は、濃い死の影を纏って地に降り立った。
「本多忠勝、推参」
 どおおおおお、と。
 地響きのような動揺が遠呂智軍に走り、兵は浮足立って逃げ惑う。
 肌でその殺気を感じ取ったのだろう、だがしかし、わずかに遅かった。
 忠勝の槍は唸りと風を沸き起こし、手近な遠呂智軍の兵士をまずは一薙ぎ、屠った。
 枯れた小枝の如く薙ぎ払われた兵士は、一人や二人ではない。
 耳障りな絶叫を残して地に落ちた兵士達は、二度三度ともんどりを打って、そのまま再び動くことはなかった。
 忠勝は槍を一回し旋回させ、ぴしりと構えて遠呂智軍を睥睨する。
「いざ」
 その一声で、敵は委縮する。
「参られい!」
 その一喝で、敵は戦慄する。
 が眩くすら思う武の顕在が、そこに在った。

 逃げ散る遠呂智軍を深追いすることなく、忠勝は悠々と戦場を後にする。
 恐れ多くも同じ馬に乗り、忠勝のその背に体を預けている自分をは酷く惨めに感じていた。
 よりにもよって忠勝の手を煩わせるとは、何という失態だろう。
 大きな口を叩いて出て行った配下が窮地に追い込まれるのを見て、忠勝がどれ程落胆したのかなどと、考えたくもなかった。
 不甲斐ない。
 まさに、一言に尽きる。
 忠勝は今や、反乱軍に残された最後の砦と変わらぬ。
 その武は、恐らく遠呂智さえも凌駕するに違いない。
 だと言うのに、己如き小物の為にその武を消耗させてしまった。
 これが情けなくなくて、何だと言うのか。
「……忠勝様」
 置いていって欲しい。
 そう申し出ようと、声を掛けた。
 敵は散って行ったけれど、何せ数が違い過ぎる。
 一度解かれた包囲網を再び作り上げるのにも、然したる時間は掛からぬだろう。
 馬が負う荷は、軽い方がいいに決まっている。
 ならばここで置いていって欲しかった。
 が言葉を綴る前に、忠勝が口を開く。
「何も言うでない」
「しかし」
 思わず反論してしまったに、忠勝は馬の足を止めた。
 唖然とする。
 早く逃げなくてはならぬ時に、自殺行為も甚だしい。
「忠勝様」
「そなたがこの場に留まり、時を稼ぐと言うのであれば、我が為したは水泡も同じ。ならば、共にここで戦うのみ」
 あっさり見抜かれて、は心底恥ずかしい思いに駆られる。
 助け出されたが途中で降りて居残ると言うのであれば、確かに忠勝のしたことはまったく無意味になるだろう。
 忠勝の言う通りだった。
「……私の武は未熟に過ぎまする」
 忠勝の足枷にだけはなりたくない。
 それぐらいなら、死んだ方がましだ。
「ならば、何とする」
「何と……とは……」
 侍を辞めるか。
 忠勝の問いは簡潔に過ぎて、の胸を容易く抉る。
「それも、良いやも知れぬ」
 見捨てられた。
 無様を晒した挙句、子供のような駄々までこねて、ある意味自業自得の答えであった。
 役立たずの上、やる気もないものを反乱軍に置く訳にはいかぬのだ。
 分かっていながら滔々と言い放っていた己の考えなしに、腹の底までじくじく痛む。
 の眦に涙が滲むのを見て、忠勝はふっと口元を緩めた。
「悔しいか」
「……それも、ございます」
 悔しい、恥ずかしい、情けない。様々な負の感情が渦を巻き、体の中で膨れ上がっていく。
 出口のない感情に押し潰されて、息するのも辛くなった。
「……侍を辞め、我が子でも生すか」
 空白が生まれる。
 あまりの衝撃に、べたついた感情が一切消え失せていた。
 目を丸くするの目に、忠勝の苦笑いが滲んで映る。
 忠勝でも冗談を言うことがあるとは、思ってもみなかった。
 時と場にはそぐってなかったが、それらを上回る衝撃があって、を呆然とさせる。
 そんなを余所に、忠勝は再び前方に向き直る。
「誰しも、為すべき業を背負って居ろう。今の己を恥じると言うのであれば、恥じぬように研鑚に励めば良きこと」
 それだけ言って、忠勝は馬の腹を蹴った。
 馬が軽くいななき、地を蹴り風を巻き起こして駆け出す。
 例え研鑚に励んだとて、今のが足手まといなのは変わりない。
 だが、忠勝はそれで良いと雄弁に物語っていた。
 今足らぬ分は、遠慮なくもたれて良いと証している。
 口では現さぬでも、その背が、のすべてを肯定してくれていた。
 だからと言って、甘えが過ぎてはならぬ。
 忠勝は、に強くなって欲しいと願ってくれているのだ。
 応えたい。
 今が無理でも、出来得る限り早く、疾く、忠勝の隣に在って恥じないだけの自分でありたい。
 けれど、今だけ。
 今だけは、こうして。
 忠勝の背に身を預け、は固く目を閉じた。
 強くなろうと、決意した。

  終

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