曹丕から書類を受け取ったは、一礼して立ち去り掛けたその足を止めた。
 一瞬のことだがそれと気付いた曹丕が、ふいと目線を向ける。
「あぁ、いえ」
 の目が興味深げに曹丕の眼を覗き込む。
 逸らさぬ曹丕の視線との視線が絡み合う、かと思われた。
 だが、が実際に見詰めていたのは曹丕の眼にあらず、もう少し上の位置だった。
「曹丕常務、付かぬことをお伺いしますが、目、お悪いですか?」
「否」
 すぐさま否定する。
 視力はそれなりある方だ。
 さすがに砂漠の民のように、5.0だの6.0だのではなかったが。
「……そうですか……」
 納得いかなげなに、曹丕は目で問う。
 は拳を口元に当て、うぅんと小さく唸る。
「……すみません、少し、触ってもいいですか? 少しだけ」
 肯定はしない。
 但し、否定もしなかった。
 それを是と取ったのか、はついと指を伸ばして曹丕の髪に触れる。
 否、の指先は前髪を掻き分け、その下にまばらに見えていた眉間に触れていた。
 軽く触れる指がくすぐったい。
 曹丕がぴくりと身動ぎするのと、の指先が離れるのとはほぼ同時だった。
 上目遣いで睨め付けられても、に動じた様子はない。
 と言うより、何事かに意識を奪われて、曹丕に睨まれていることに気が付けないで居るように見える。視線で恫喝するのを止めて観察する方に切り替えると、もようやく我に返ったか、詫びを入れてきた。
 このまま済ませても良かったのだが、珍しく好奇心に駆られた曹丕は、に意味ない謝罪を止めさせて一体何がそんなに気懸かりなのかを率直に問う。
「……えぇと」
 は、すぐに戻ると言い残して常務室を後にする。
 言葉の通りにすぐ様戻ってきたのだが、その手には先程渡した書類ではなく小さなプラスチックケースを握り締めていた。
「これ」
 差し出されて手に取ると、中にはとろりとした薄い琥珀色した液状の物体が入っているのが見える。
「ここに」
 がちょい、と指差したのは、今しがた触れて寄越した眉間だった。
「皺、出来てますから」
「…………」
 訝しげにケースを揺らす曹丕から、は当たり前のように奪い返して蓋を緩める。
「こうして、これくらい指にとって」
 ちょいちょいと自らの眉間に液体を刷り込むに、曹丕はやはり無言を貫く。
「これ、結構強力ですから。二三回で、効き目それなり分かりますから。これ、おまけでもらったサンプルですから」
 要するに、皺取りクリームの親戚のようなものらしい。
 おまけで貰った品だから、遠慮なく使ってくれというのだろう。
 胡散臭げにケースを見遣る曹丕は、しかしもう手を出そうともしなくなっていた。
 の表情が困惑の色に染まる。
 余計な気遣いだったのかもしれないが、曹丕の眉間に刻まれた皺がどうにも気になってのでしゃばりだった。
 受け取ってくれさえすれば気が済んで、もううるさいことは言わないつもりだったが、この様子では将を射んと欲すればの精神で、甄姫に勧めた方が早かったのかもしれない。
 ただ、彼女が殊曹丕に関しては酷く焼き餅焼きだという話は有名だったので、もついつい不精をしてしまった次第だ。
――うぅん、失敗。
 今更引っ込めるのも体裁が悪い。
 机の端にでも置いて帰ろうかと考え始めた時、曹丕は自身の眉間をすいっと指差した。
「お前がやれ」
「………………はぁ」
 何でまた私が、と思わないでもなかったが、まあ上司命令だし、と、は素直に従った。
 適量と思われる分量を、曹丕の眉間にちょいちょいと塗り込んでやる。
 それだけだったから、作業はあっという間に済んだ。
「……そうしたら、これ、一日一回で大丈夫ですから」
「明日は、何時になる」
――あーれー?
「……えぇっと……じゃあ、今くらい、ということで……」
 曹丕は軽く頷くのみだ。
 なし崩しに常務室に通うことになったことに首を傾げながら、は一礼してその場を辞した。
 ドアを閉める間際に見えた曹丕の顔は、あくまで沈着冷静で、おかしなところなど欠片も伺えない。
 物の怪の類に化かされた感が強かったが、常務命令とあれば是非もなし、とにかくは曹丕の言う通り明日も常務室に向かうことにした。
 それに、眉間に美容液を刷り込んでいる間の曹丕の顔が、少しばかり心地よさげで可愛く見えたりしたのも事実だった。
 目の保養というと少し違うが、物珍しいものを見物するつもりであれば問題ないと踏んでいる。
 どうせ今日を併せても二三日の話、と軽く見積もっていたは、その考えが甘かったことをすぐに思い知らされることになった。

  終

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