は一人暮らしをしている。
 今、住んでいるのは、元はどこかの会社の寮だったと言う建物の一角だ。
 と言っても、厳密に言えば本当の一人暮らしという訳ではない。
 一つには、この建物自体がの持ち家になっており、人を住まわせていること。
 一つには、それが遥か遠い過去から来訪した異邦人であるが故に、が面倒をみなければならないこと。
 これら二つの理由が、戸閉まりのできる一室に居を構えたが、厳密には一人暮らしではないという証である。

 洗濯物を干す用に設えられた屋上に登ると、そこに探していた人の姿を見出す。
「曹丕……様、お茶が入りましたよ。お酒も出てますけど。どうします?」
 茶などわざわざ淹れてやることもないとは思うのだが、他の者が飲んでいるのに自分だけ飲んでいないという事実を、曹丕は酷く嫌う。
 それだけなら、ただこの人が偉そうなだけだと断言できるが、その逆であっても(だから、曹丕だけが飲んで他の者に飲ませない場合においても)気にする性質らしいので、ある意味、変にこだわりを持つ平等主義者なのかもしれない。
 とはいえ、茶を淹れたからには声を掛けねばならず、声を掛ける為には所在を求めて元寮内のこの建物を歩き回らねばならない。
 宝くじで得たあぶく銭で、残りを当座の生活費に充てられる程度の物件だ。不況の最中だったせいか、依頼した不動産屋が張り切ってくれたお陰で、支払った金額には十分見合う代物ではある。
 だが、曹丕を探すのには少しばかり骨が折れる物件でもあった。
 そこまで広くはないのだが、普通の一軒家と違って動線の確保が半端ない。
 三階半の建物は、階段が三つ据え付けてあり、一つは御洒落を装った非常階段であることを除いても、それだけで擦れ違いの確立を増してしまう。
 また、プライバシーの確保に設計師が命を張ったのか、各部屋並びに廊下には多彩な死角があり、下手をすると本人の前を素通りしてしまうことにもなりかねない。
 有体に言えば、バブル期の遺物といった代物なのである。
 だから、正直曹丕ならずとも人を一人探し出すのさえ厄介な作りなのだ。
 その上、曹丕は何故か呼び掛けても返事をしない。
 呼び掛けられると、その声のする方に出向いてくれることもあるが、大抵の場合が見付けてくれるのをおとなしく待っているだけだった。
 これが、困る。
 鳴かないペットでもあるまいに、が見付けるまでじっと待たれるだけというのは本当に手間だ。
 しかし、その手間を尽くさないと曹丕は不貞腐れる。
 不貞腐れた曹丕の扱い程、気が重いものはない。
 別に、何か害がある訳ではない。
 ただ、ずっとを見ているだけである。
 あの目付きで見られるだけ、無表情に目で追われるだけの話だ。
 そんな次第で、耐え難いので一生懸命探すことにしている。
「……曹丕、様ー?」
 いい加減慣れなければと思うのだが、現代人のには様付けの呼称は少々辛い。
 本人に向かって『ひーちゃん』とかは滅相もないので我慢しているが、見付かるまでは呼び掛け続けるしかないのが難だ。
 呼び掛けても振り向かないので、は曹丕の隣に立つしかない。
 曹丕は、屋上から眼下に広がる景色を眺めている。
 やや高台に取り残されたように立つこの場所からは、街の灯りがきらびやかに輝いて見えた。
 過去では見られない夜景に、あの曹丕も見惚れているのかと一瞬だけ考える。
「……人とは、強欲なものだな」
 違ったらしい。
 厭わしげな溜息が、曹丕の口から漏れた。
「天に瞬く星さえも、地上に引き摺り落としたか」
 言われて、見上げる空には確かに星は少ない。
 本当であれば、空には粉を刷いたように星が瞬いている筈である。も昔旅行に行き、夜空に在る星の数に仰天したことがあるので、分かる。
 曹丕が馴染んできたのは、むしろそういう夜空であろうから、夜景の明るさに消えた星の数に呆然としてもおかしくない。
 そして、曹丕の言う通り街は星を落として撒いたかのようにきらきらしい。
 目も眩むような明るさは、人が欲望の末に落としたものと言われても、反論しかねるそれなりの説得力を備えていた。
 何と答えて良いものか、は迷う。
「……嫌いですか」
 困った末に、訳の分からない問いで返してしまった。
 お茶を濁してしまえという投げ遣りな気持ちがなかったとも言い切れない。
 曹丕はを見、そして笑った。
「否」
 短いが力強い答えだった。
 もまた曹丕を振り返る。
「否、……そんな強欲さは、あながち嫌いでもない」
 曹丕の目は強い力を秘めている。
 だからこそは、曹丕を様付けで呼んでしまう。
 逆らえない、逆らうことを許さない、そんな目だ。
 その目に囚われ、は身動きが取れなくなる。
 固まるが映る曹丕の目は、強さを損なわぬ癖に不思議と優しい。
 曹丕の顔が段々と近付いて、は思わず目を閉じた。
「我が君」
 冷たい声が、冷たい空気を切り裂いて響いた。
「お茶が冷めましてよ」
 殺した怒りが滲み出る甄姫の後ろに、頭痛を堪える夏侯惇の姿が在る。
 慌てふためくとは裏腹に、曹丕は至極冷静に『ああ』と答えるのみでの傍らを離れた。
 甄姫と連れ添って去って行く曹丕の後ろ姿を、は呆然と見送った。
「…………その、すまんな」
 かなり長い時間が経ってから、夏侯惇が謝って来た。
 夏侯惇が詫びることではあるまいが、は何となしに夏侯惇を見上げる。
「あれは、どうも父親の血を濃く継いでいるようだ」
 これぞと思えば、呼吸するかの如く口説きに掛かる。
 曹操を見れば、成程と納得し掛ける話だ。
 だが、しかし。
――そんなDNAは世の為にならんので、絶滅させてしまえ。
 物騒な考えを滲ませて不貞腐れるに、夏侯惇は掛ける言葉が浮かばない。
「おぉ、こんなとこに居たか」
 夏侯淵がひょっこり顔を出す。
「曹丕、見付かったみたいだぜ」
 如何にもほっとしたような夏侯惇を置き去りに、は無言で屋上を出る。
 あからさまな仏頂面に、夏侯淵は目をぱちくりさせた。
「……何かあったのか、惇兄……?」
「俺じゃない」
 確実に冤罪である疑惑の目を向けられ、夏侯惇も仏頂面になる。
 階段の下の方から、突如が怒鳴り散らした。
「惇兄、淵兄、早く! 今日は、呑むよ!」
 夏侯惇と夏侯淵は互いの顔を見合わせ、次いで急ぎの後を追った。
 どうやら、は自棄酒と洒落込むらしい。
 ならば、些少の愚痴を聞かされたとしても是非是非御同伴に預かりたいのが本音である。
 多種多様なこの世界の酒は、夏侯惇、夏侯淵の二人をして虜にするものだった。
 呑むというのが茶ではないことだけを祈りながら、踊り場で二人を待つに軽く手を掲げた。

  終

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