「あの……話したいことが、あるんだけど」
 切羽詰まったようなの様に、凌統もピンと来るものがあったらしい。
「待った」
 勢い込んだところにストップが掛かり、は出鼻を挫かれ戸惑う。
 困惑したような凌統の表情に、告白する前に玉砕したのかと泣きたくなった。
 凌統は、深呼吸を一つすると、の目を覗き込む。
「それは、俺から言いたいんだっての」
 はっとするの前で、凌統は照れ臭そうに笑った。
 それだけでも十分だ。
 けれど、そうなればなったで、凌統の告白をどうしても聞きたくなる。
「……うん……」
 赤くなった頬に手を当て、けれど耳はどんな微かな声も聞き逃すまいとそばだてる。
「俺……俺は」
 刹那の一呼吸が空いた。
ー」
 無神経に扉が開き、二人は少なく見積もっても二十センチは宙に浮いた。
 何も知らなげな孫策は、異質な空気を感じて首を傾げる。
「……どうか、したのか?」
「い、いえ……」
 へどもどしながら答える凌統の横で、は、驚いたのと告白を聞きそびれたのとで複雑な思いに駆られていた。
 明らかに様子のおかしい二人に対し、孫策は物言いたげにじろじろ不躾な視線を浴びせ掛けたが、飽きたのかに向き直る。
、親父が風呂の沸かし方がよく分からねぇって言ってたぜ」
「孫堅様がっ!?」
 周りに感化され、は孫家の面々をついつい様付けで呼んでしまっていた。
 呉の将等が勢揃いしての前に現れたのは、それ程前の話ではない。
 だが、当たった宝くじを換金したり、その金で皆で住める不動産を即決購入したり、引っ越したり皆の分の家具や食器を揃えたり、とにかく忙しい日々を送ったせいか、期間は短くともすっかり馴染んでいたのだ。
 それはともかくだ。
「孫堅様に、何で風呂なんか沸かさせてるんですかっ!」
「だってよ、親父が入りたいって言うからよ」
 どうもずれている。
 世界は違えど支配者たる男に何をさせているのかと言いたいのだが、孫策にとっては、どうであれ己の父の話なのだ。
 息子だとしても配下然としている者もないではないが、少なくとも孫策にはそんな遠慮はまったくない。
 とにかく、孫堅にそんなことをさせる訳にもいかないし、一つしかない風呂を壊されるのも困る。
 隣の凌統を盗み見るの目は、複雑極まりなかった。
「……行ってきなよ」
「でも」
 が躊躇うと、凌統はの背を押し出した。
 孫策がドアの影に引っ込んだ一瞬の隙に、凌統の囁きが辛うじてに届く。
――後で。
 声は極々小さかったが、の耳ははっきり捉えた。
 が顔を赤くして振り返ると、凌統は初めて見せるような優しい目と笑みでを送り出す。
 こく、と頷き、怪しまれぬよう急ぎ飛び出した。

 別に、が凌統とどうなろうと誰に遠慮するものではない。
 は完膚なきまで一人身(と言うと甚だ虚しいが)だったし、凌統にも決まった相手は居ないらしい。互いに独身、恋人も居ないとなれば、時代や生い立ちはともかく、恋に落ちても問題はない筈だった。
 ならば何故に隠すのかと言えば、単に恥ずかしいからの一言に尽きる。
 生活を共にしている中、と呉将達は家族同然になっていた。
 家族に自分の恋愛沙汰を知られる小っ恥ずかしさは、体験してみないと分からないかもしれない。
 まして、はその『家族』の一人に恋してしまった訳で、何とはなしにでも『隠さなくては!』と思い込んでしまったのである。
 ばらすにしても、きちんと、それこそ結婚が決まるまでは口に出すのもおこがましい。
 すべて感覚の話であるが故の、筋の通らない話だった。
 風呂場に着くと、幸い孫堅は手当たり次第にいじるような暴挙に出ることもなく、おとなしくの到着を待っていてくれた。
 が風呂を沸かす支度をしているのを、孫堅はじっと見つめている。
 スイッチをいじるだけだから、手間はない。
 済ますだけ済まして、急いで戻ろうとすると後ろから引っ張られた。
「え」
、すまんがもう一度やって見せてくれ」
 真剣な面持ちで懇願されては、嫌だと言えない。
 どうも、風呂くらい一人で沸かせるようになるのだ、という迸るような情熱を感じる。
 スイッチの操作だけで沸かせる風呂が、よっぽど気に入ったのかもしれない。あるいは、こんな簡単な操作もできないことを恥じているのか。
「は、はぁ……」
 勢いに押されて頷くと、孫堅がにっこり破顔する。
 その無邪気な笑みに、は文句が言えなくなった。
 という訳で、ついつい孫堅が一人で風呂が沸かせるようになるまで付き合ってしまったのだった。

 結構な時間が経って、は慌てて凌統の姿を探した。
 後でとは言われたものの、いつどこでまでは聞いていない。
 聞きたいという欲望に追い立てられて、小走りになる。
 が走り始めたのと、ほぼ同時だった。
 どこん、と鈍い音と共に走った痛みに、は鼻を押さえてうずくまる。
「これは……、申し訳ないことをした。すまん」
 どうやら太史慈にぶつかったらしい。
 しかし、生身の人間同士がぶつかったとはとても思えない音だった。
 余程鍛えているのだろう、が負ったダメージとは裏腹に、太史慈はけろりとしている。たぶん、ノーダメージだ。
「おい、待てって」
 太史慈を追って飛び出してきたのは、甘寧だった。
 珍しい取り合わせに、は一瞬痛みを忘れる。
 しかも、甘寧の後ろから顔を出したのは黄蓋だ。ますます珍しい。
 二人の顔を見た太史慈が、露骨にむっとする。
 これもまた珍しい。
 は、完全に痛みを忘れた。
「何か、あったんですか?」
 迂闊な問い掛けだった。
 急いでいるのに、つい好奇心に負けた。
「否、聞いてくれよ!! 太史慈の旦那がケチ臭くてよぉ」
 太史慈の目がぎらっと光る。
「誰がケチか。聞き捨てならん!」
「ケチじゃねぇか、あーんな小っこい酒一本のことでよぉ」
「けちな小っこい酒一本と言うならば、それに手を付けたお前は何だというのだ!」
「まぁまぁ、落ち着かんか」
「あんたが言うなよ!」
 決して小さくも薄くもない男三人に囲まれ、は途方に暮れる。
 全然話が見えない。
 しばらくわあわあ遣り合っていた三人は、の困惑顔に気付くとようやく口を噤んだ。
 家主であり保護者であるに対しては、皆一応それなりに気を遣ってくれるようだ。
「えっと……お酒が、原因……なんです?」
 この中では比較的まともに説明してくれそうな太史慈に話を振ると、太史慈は恥ずかしそうに頷いた。
「俺が冷やしておいた酒を、甘寧殿が呑んでしまったのだ」
 酒を冷やすという慣習のなかった孫呉の面々には、いわゆる『キンキンに冷えたビール』が非常に珍しく、また良く口にあったらしい。
 そんな訳で、ビールの争奪戦は比較的良くあることで、最近は瓶や缶に名前を書くことで争いを回避させている。
 太史慈のことだから、無論名前の書き忘れなどしなかったろう。
 が甘寧をちらりと見ると、甘寧は言い訳がましくに擦り寄った。
「だってよ、黄蓋の旦那が俺の酒呑んじまうからよ」
「じゃから、わざとではないと言っておろうが!」
 黄蓋の気質から言って、まぁわざとではなかったのだろう。
 要約してみれば、甘寧が楽しみにしていた酒を黄蓋がうっかり呑んでしまい、呑まれた甘寧は八つ当たり然に手近にあった太史慈の酒に手を出してしまった、ということらしい。
「わざとじゃないにしても、黄蓋さんも悪いです」
 が判決を下すと、甘寧はそれ見たことかと満面の笑みを浮かべ、胸を張る。
「確信犯の甘寧さんが、一番悪いです。太史慈さんは無罪。よって、黄蓋さんには今日いっぱい、甘寧さんには三日間の禁酒を命じます」
 黄蓋はともかく、甘寧が盛大に喚き散らす。
 フランス人が水の如くワインを消費するという通説があるが、甘寧も正に水のように酒を呑む。三日間の禁酒は、何より手痛い罰に違いない。
「無罪の太史慈さんには、これを上げましょう」
 冷蔵庫からお取っ置きの発泡清酒を渡すと、太史慈の顔もようやく緩んだ。
「よろしいのか」
 控えめに訊いて来るのへ笑みで応えると、はその場を後にする。
 男三人がひそひそこそこそと話し込んでいるのが聞こえたが、渡した酒を太史慈が誰に呑ませようと、黄蓋と甘寧が罰を破ろうと、の知ったことではない。
 その辺、は彼らに酷く甘かった。
 階段を上ろうとして、探し人の姿を見出す。
 思わず笑みが零れた。凌統も、を見て嬉しそうに笑う。
 が、一瞬でその表情が曇った。
殿!」
 呼ばれ、振り返ると陸遜が走り込んできていた。
「申し訳ありません、殿! 読めぬ字があるのです!」
「え……」
 今でなくては駄目なのか。
 少し待ってもらえないかと口を開き掛けたは、陸遜の後ろから周瑜と呂蒙が来るのに気付いた。
 二人とも、の姿を見付けて微笑んでいる。
殿、すまんが教えて欲しいことがあるのだ。ここのところなのだが……」
殿、私も訊きたいことがある。この、建築物の構造のことなのだが」
 あっと言う間に取り囲まれ、は身動きが取れなくなる。
 ちらっと視線を送れば、そこに居た筈の凌統の姿は消えていた。
 見咎められて立ち入られるのを嫌ってのことだろうか。
 がっかりしつつも、熱心な周瑜達をむげにすることもできない。書斎に移動して、恐らく一つでは済まない質問を受け付けることになった。

 ようやく解放されたは、耳を撫でながら居間に向かっていた。
 質問が議論を呼び、議論が口論になって場は白熱、かなりの時間拘束される羽目になってしまった。
 例えば、ゐだのゑだのといった変体仮名の存在意義など訊ねられても答えに窮する。
 喉もからからになってしまい、一旦凌統探しを諦めて台所に引き返していた。
 お茶の一杯なり飲まなければ、話すのも億劫だったのだ。
 台所に向かう途中で居間を横切ると、孫権が真剣な眼差しでテレビを見ていた。
 正確には、テレビゲームに夢中になっている。
 その横には周泰がちんまり正座して、孫権のプレイを見守っている。でかい図体を縮込めるようにしているのが、如何にも忠犬らしくて笑いを誘った。
 そうこうしている内に、孫権の自機が撃墜され(シューティングだった)た。
「うお……!」
 低く短く唸ると、孫権はがっくりと肩を落とす。
 そのまま通り過ぎるのも気が引けて、は立ち竦んでいた。
「……おぉ、
 俯いていた孫権が、に気付いて顔を上げる。
 頭を下げていたからか、それとも恥ずかしかったのか、孫権の顔は酷く赤い。
「……お茶、飲もうかと思って。飲みます?」
 の問いに、孫権はやはり恥ずかしそうに微笑み、こくりと小さく頷いた。周泰も、孫権にやや遅れて頷いてみせる。
 三人分の茶を淹れて戻ると、孫権は再びコントローラーを手にしていた。
 しかし、ゲーム画面はデモプレイになっている。
 どうやらイメージプレイに勤しんでいるらしく、画面は見ずにコントローラーを熱心に弄くり回していた。
 周泰は、そんな孫権をじっと見守っている。
 気のせいか、母のような慈愛に満ちた目だった。まぁ、身長二メートルの母など、早々居るとも思えないが。
 が戻ったことに気付くと、孫権は丁寧に両手でゲームのスイッチを消し、ゲーム機が並んだ棚に戻す。位置を微妙にずらしつつ他の機械と平行に揃えると、いそいそとローテーブルの前に座った。
 几帳面なのだろう。
 その間、周泰は孫権の座布団を裏返し、やはりテーブルと平行に置いていた。
 主従、呼吸のあった行動に、はただただ感心する。
「どうも、いかん」
 茶を一口啜った途端、孫権は深々と溜息を吐いた。
「何がですか」
 が問うと、孫権ははっとして、またも顔を赤らめる。
 一人言のつもりだったのかもしれない。
「……その、上手く先に進めなくてな」
 ゲームのことで悩んでいたようだ。
「下手、なのだろうな。何に付け私は、駄目だ」
 珍しく弱音を吐露する。
 平和な世界に来たことで、虚勢を張る必要を感じなくなったのかもしれない。
 は困って、周泰を見遣る。
 周泰はの視線にはまったく反応せず、じっと孫権を見ている。先程の慈母の眼差しとは違う、悲しそうな目だった。
 胸に鋭い痛みが走る。
「……そんなこと、ないですよ! 私なんか、さっき孫権様がやってたゲーム、一面クリアできるかどうかですもん。孫権様は、五面とか六面までいっちゃうじゃないですか。充分凄いですよ!」
 たまらなくなって、は急に弁舌になった。
「それに、孫策様や小喬ちゃんがやった時は、コントローラーあっちこっちに動かしちゃって、全然できなかったじゃないですか。孫権様は、そんなこと全然ないし、それだけでも凄いと思います!」
「そ、そうだろうか……」
 に押されるように漏らした孫権に、は力強く頷いた。
「ね、周泰さんも、そう思いますよね!」
 が振ると、周泰もこっくり頷く。
 孫権は照れたように頬を染めながら、そうか、と小さく呟いた。
 手持ち無沙汰に茶を啜る孫権を、周泰は優しげな眼差しで見つめる。
 ほっとして胸を撫で下ろしたは、ふと、周泰がこちらを見ていることに気が付いた。
 その目が、ふ、と柔らかく緩む。
 胸を射抜かれたような気がした。

 多少くらくらしながら、自室に向かう。
 と、自室よりも凌統の部屋に行った方がいいのだろうかと思い直し、足を止めた。
 振り返った瞬間、猛烈な勢いでタックルを食らう。
「ごふっ……!」
 冗談でなく、胃の腑が口から飛び出すかと思った。
 タックルを仕掛けてきたのが小喬だと分かり、孫権との話の引き合いに出した仕返しなのかと疑ってしまう。
 にしても、これはちょっとヒドい。
「やだ、大丈夫?」
姐、大丈夫ですか!?」
 呆れたような尚香と真っ青になった大喬が駆け付けてきた。
「大丈夫だよ、みんな大袈裟だなぁ」
 が答える前に小喬が答えてしまった。
 実際はまったく大丈夫ではなかったが、も勢い頷く。
「……本当に、大丈夫ですか?」
 大喬が疑わしげにを見るので、ますます大丈夫ではないとは言い難くなる。痛みが引いてきたのもあって、は努めて笑って見せた。
「その様子なら、大丈夫ね!」
 尚香が素直に信じてしまい、場を締める。大喬は未だ不審顔だったが、の重ねての笑顔に、不承不承ながらも頷いた。
「じゃ、始めましょ!」
 今度は何だとが目をぱちくりする間に、右と左の両側から挟まれ軽々持ち上げられた。
 事実、連行される宇宙人のように引き擦られ移動させられている自分に、は悲鳴にならない悲鳴を上げる。
 助けは、遂に来なかった。

 連れ込まれたのは、他ならぬ自身の部屋だった。
「はい、。早く着替えて」
 勝手にクローゼットを漁られ、投げて寄越されたのはのパジャマだ。
「パジャマパーティーをします!」
 尚香が大々的に宣言し、大喬が拍手を打ち、小喬が口笛を鳴らす。
 一人が取り残されて、目を丸くしたまま硬直した。
 何で今時パジャマパーティーなのだ。古い映画かドラマでも見たのだろうか。
 呆気に取られるに、反応が薄いと見たか、三人は顔を見合わせ一斉に頷く。
 何をする気だと嫌な予感に怯えただったが、その為逃げる機会を失った。
 三人の魔の手が一斉にまた素早く伸び、の服を引き剥がす。
「な、ちょ、やめ……!」
 瞬殺だった。
 目にも止まらぬ早業で裸に剥かれたは、大喬の差し出すパジャマに袖を通すしかない。
 時に、男の武将達より女の武将達の方が相当恐ろしいことをしでかしてくれる。こうなったらもう諦めるしかないと、やむなく覚悟も定まった。パジャマだろうがネグリジェだろうが、どんと来いである。
 だがしかし、なのだ。
「……いや、パジャマパーティーはいいんだけどさ……」
 その前に、どうしても凌統に会っておきたい。
 会って、きちんと場の設定と約束をしておきたかった。
 かといって素直に打ち明ける気にもなれず、どうしたものかと悩むの視界の端に、見慣れぬ封筒が飛び込んだ。
 パソコンのキーボード下に差し込まれるように置かれたそれは、が最後に部屋を出た時には絶対になかった代物だ。
「あの……ちょ……っと、トイレ……!」
 後ろ手に封筒を掴むと、はダッシュで部屋を出た。
 三人があからさまに訝しげな顔をしたが、もう構っていられない。
 はトイレに飛び込むと、鍵を掛けて厳重にチェックした。
 もう、今度こそ誰にも邪魔されたくない。
 ちゃんと鍵が掛かっているのを確認すると、便座に腰掛け改めて封筒を見る。
 封筒の端に、小さく『統』と記してあった。
 間違いなく、凌統からの手紙だ。
 は、震える手に苛付きながら、封筒を開ける。
 何と書いてあるのだろう。次に繋がる約束か、いっそストレートに愛の告白か。
 どちらでも良く、どちらでも嬉しい。
 ようよう取り出せた四つ折りの便箋を、どきどきしながらそっと開いた。
「………………!!」
 は、便箋を強く握り込む。
――読めない。
 漢字に良く似ているが、似て非なる言語がそこにあった。いわゆる繁字体という奴なのだろう。
 目を凝らして再読を試みるも、字面から内容を窺うことさえ出来ない。
 泣きたい。
 しかし、こんなことで泣くには、は年を食い過ぎていた。
 ただ落ち込むだけだ。
 ほへぇ、と腹の底から吐き出す深い溜息が漏れた。
 わずか数時間の出来事ながら、余りに見事な擦れ違いっぷりに、はこの恋の前途多難を悲観せずには居られないのだった。

  終

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