仕事が繁忙期に入り、は多忙を極めていた。
こんな状態で、家に帰ってからも家事をこなすのは大層きつい。
何日かはカレーや鍋でしのいでいたのだが、ついに限界を迎えた。
「……今日……出前で、いいですか……?」
疲れが顔に出たに、駄目だと言う者は一人も居なかった。
そも、出前という言葉を知らないのかもしれない。
は、棚に仕舞っておいたデリバリーサービスのメニューを幾つか引っ張り出すと、投げ捨てるように机に置き、メイクを落としに洗面台に向かう。
後に残された総計十三名の魏将は、それぞれ顔を見合わせた。
の前に魏将十三人が揃って現れたのは、それ程前の話ではない。
折しも当選した宝くじは、正に彼らの為に使うべく与えられた天恵と取ったは、彼らの為にその金を惜しみなく使ったのだった。
また、彼らの生活の面倒は自分が見るのだと、家事一切を当たり前のようにが引き受けた。
一人暮らしのの仕事が、突然十三倍になった訳で、これが辛くない筈もない。
何とかこなしていたものの、仕事に忙殺されることで疲労が溜まり、それが直接家事に影響するようになる。
当たり前と言えば当たり前のことだった。
メイクを落としたは、はっと気付いて飛び上った。
メニューを投げてすぐ、メイクを落として着替えようと自室に戻ったまではいいものの、何かの拍子で寝落ちてしまったらしい。
時間を見ると、既に夜中の一時になろうとしている。
出前どころではないと青ざめ、台所に向かう。
魏将達を食いっぱぐらせてしまった。
痛恨のミスに、頭の中が真っ白になる。
台所に入るには、リビング兼食堂に使っている部屋を横切らなければならない。
比較的早寝の魏将達だが、今日に限っては誰かが起きているのが分かった。
起きていたのは、曹操だった。
「おぉ、目が覚めたか」
曹操は、が入って来ると同時に声を掛けてきた。
反射的に深々と頭を下げる。
「……どうした、」
頭の上から声が降って来る。
すぐそばまで来たのだと思うと、尚更顔を上げられなくなった。
それを、曹操の手が無理やり引き上げる。
曹操は、の肩を抱きダイニングに座らせると、自らは台所に消えた。
程なくして、いい匂いが漂ってくる。
張り詰めた気持ちを緩ませるような、とても美味しそうな匂いだった。
やがて、曹操が皿を手に戻って来る。
匙と一緒に置かれた深皿には、具沢山のスープがたっぷり盛られていた。
食べるように勧められ、は匙を取る。
恐る恐る一口分を匙に掬い、息を吹き掛けて冷ますとゆっくり啜り込む。
美味い。
たった一口がみるみる体中に沁み渡り、腹の底がぽかぽか暖かくなる。
一匙目で勢いが付くと、スープは見る間に量を減らし、あっという間になくなった。
食べ終わり、は深々と溜息を吐く。
体が冷え切っていたことに、今ようやく気付かされた。
額には汗が浮いていたが、不快さはない。
むしろ、汗に紛れて悪いものが体の外に出て行くような、そんな爽快感さえある。
「……ご馳走様でした」
半ば放心した状態ながら、手を合わせて頭を下げる。
曹操は黙って頷いた。
腹が満たされると、ふと疑問が浮かび上がる。
「誰が、作ってくれたんですか?」
御礼を言いたいとが訊ねると、曹操はにやっと笑った。
「儂だ」
「えぇっ!?」
大袈裟な程に驚くに、曹操はくつくつと肩を震わせて笑う。
「この程度の料理を作るなど、容易いことよ」
曹操は手を伸ばし、の肩を掴む。
そこから首筋を撫で上げ、眉を顰めた。
「ずいぶん、冷たい。今宵は、このまま休むと良い」
さっと立ち上がり、空いた皿を手にする曹操に、は我に返って慌てた。
「私が」
皿を取り返そうとする腕は、宙を切る。
「」
素早く避けた曹操が、悩ましげに眉を寄せる。
「儂等は、そなたの世話になっている。そなたの庇護なしには、生きては行けなかっただろう」
賢い曹操だけに、己の置かれた状況を素早く正確に見定めていた。
「それ故に、そなたに倒れられては困るのは我等だ。気付かなんだ儂も愚かであったが、そなたももう少し、儂等に恩を返す機を与えてくれ」
何もかもを一人でやろうとするな、と、曹操はやんわりをたしなめる。
「でも」
「そなたが我等を案じてくれるのは分かる。だが、我等とて幼き子ではない。この世界のことを学び、覚える時間はそなたから既に与えられて居る。その証は、今そなたが身を以て知ったであろう」
曹操の作ったスープがどれ程美味かったか、は確かに身を以て知った。
だけでなく、曹操がスープを作ったということは、即ち調理の為の知識を体得したと同義である。
水道の栓を開け、調理器具を選び、コンロを使いこなし最適な調味料を用いることが出来たからこその、スープの味である。
「許チョが風呂を沸かした。食ったばかりで何だろうが、入りたければゆっくり浸かるが良い。洗濯は、徐晃と張遼がやるそうだ。掃除は、明日夏侯惇と夏侯淵が引き受けると言っている。他に何かすることがあれば、思い付いた時で構わん、遠慮なく言ってくれ」
「そんな」
恐れ多い気がした。
尻込みするに、曹操は笑う。
「……明日は、休みだったな。張コウと甄姫が、そなたを磨き上げるのだと張り切って居ったわ」
「そ、そんな」
何をする気だ。
目を丸くするに、曹操はからからと笑い続ける。
「そなたが儂等に尽くしたいと思うように」
曹操の強い目が、を捉える。
「……儂等も、そなたにしてやりたいと思うことがある。それを、忘れてくれるな」
空き皿を持って台所に引っ込んだ曹操の後を、は思わず付いて行った。
流しに皿を置いた曹操は、おもむろに椅子の背に引っ掛けてあったものを手に取った。
は驚愕に目を見張り、ついで思い切り吹き出してしまう。
「……?……何だ」
曹操は、を怪訝そうに見詰める。
だが、はどうしても目を合わせられず、悶絶しながら壁に頭を擦り付けた。
水色地に可愛らしいヒヨコがプリントされたエプロンを身に着け、曹操はきょとんとしたままだ。
の頭を占めていた、何が何でも自分がやらなければという気概が崩れ、綺麗に消え去ってしまっている。
あまりのミスマッチに呑み込まれ、はうっかり家事の分担を認めてしまったのだった。
終