「牽牛子ではないのか?」
「何それ?」
 司馬懿を初めとする一部の者の部屋は、西日をモロに浴びる配置である。
 宝くじで当たった一億を使い、この中古物件を購入すると決めた時、はそれに気が付いていた。
 ので、夏を見越して早々に準備に取り掛かっていた訳だ。
 すだれは風も遮ると聞くので、ならばエコブームに乗って、緑のカーテンと洒落込むことにした。
 クーラーも、旧式のものではあったが、買い取り時にそのまま残されているのを譲ってもらっている。ただ、旧式だけあって電気代が掛かりそうな感じもしたし、何より武将達の体にも良くない。
 一億当たったと言っても、無限という訳ではなし、安くすませられればそれに越したことはなかった。
 それで、緑のカーテンである。
 最初はゴーヤにしようと思って(食費の足しにするつもりだった)いたのだが、半分ゴーヤ、半分朝顔と分けてみた。
 準備は同じ頃に始めたのだが、種が良かったのかゴーヤよりも朝顔の方が成長が良いようだ。
 蔓がするすると伸び、葉がこんもりと茂る。
 窓の内側から見てみると、いい感じに光を遮ってくれていた。
 正に緑のカーテンである。
 予想以上の出来栄えに、満足げに鼻を鳴らすとは対照的に、司馬懿の表情は険しい。
 何をそんなに思い悩むことがあるかとが不思議に思い、問い掛けた結果が最初の司馬懿の疑問である。
「これ、朝顔だよ」
「だが、紛れもなく牽牛子だ」
 意味が分からず、は首を捻る。
「どうした、
 今の今まで低い唸り声を上げていた司馬懿が、さっと身を引いて恭しく頭を垂れる。
 あまりに早い変わりように、は思わずぽかんと口を開けてしまうのだが、司馬懿にすればこれくらい当然のことではある。
 声を掛けて来たのは、曹操だった。
 主君への礼として考えれば、司馬懿の態度は何ら恥じるものではないが、現代人のからすれば呆気に取られて然るべしなのだ。
 曹操は、二人を見てただ笑うのみだった。
 どちらかを褒めることもなく、どちらかを詰ることもない。
 その態度こそ、曹操が最も今の暮らしに馴染んでいるという証かもしれなかった。
「司馬懿殿が、これ、牽牛子とか言うんです」
 朝顔を指差すに対し、曹操は司馬懿に目を向ける。
が、これを朝顔などと」
 曹操は軽く頷き、改めてに向き直った。
「儂の国ではこれを牽牛子と呼ぶ」
「けんごし」
 変な名前だ。
 曹操達はおよそ千八百年も前の時代に生きていたというから、朝顔の名前も違うのかもしれない。
「薬草だ。体に溜まる水を出したり、腹に住む虫を下したりする」
「へぇ」
 朝顔に、そんな効能があるとは思わなかった。
「高価な代物なのだぞ」
 司馬懿が付け加え、それで分かった。
 高価な牽牛子を無造作に生やしているので、驚いたのだろう。
「今は、そんなに高くないよ」
 何せ、小学生の観察用に育てられているような状況だ。変わり朝顔と呼ばれる朝顔の変種はそこそこいい値が付くだろうが、が植えたのは勿論普通の朝顔だから、高価な筈もない。
 だから気にしないでいいと言いたかったつもりなのだが、司馬懿は何故か不機嫌そうにそっぽを向いて、何処ともなく立ち去って行ってしまった。
 どうしたのだろう。
 困惑するの背後で、曹操がくつくつと笑い出した。
「牽牛子は、高価と言っただろう」
「……はい……?」
 曹操は、しかし未だ分からぬ風なに、優しげに微笑んだ。
「高価なものを、そなたがわざわざ植えてくれたのだと、彼奴はそう思い込んだのよ」
「……はぁ……」
 未だ分からない。
 は、だから気にしないでいいと言いたいつもりだったのだが、何か間違っていただろうか。
「逆に考えてみよ」
「逆……?」
 何だか自分が馬鹿になった気がする。
 逆、逆と呪いのように唱え、はたと気が付いた。
「……ちょっと、司馬懿殿を追っ掛けてきます」
 素直に勢い良く走り出したを、曹操は無言で見送った。
 こんなことなら、己の室も西側にしておけば良かったと、思ったとか思わなかったとか。

 司馬懿は、塀の際の日蔭にぽつねんと佇んでいたが、の姿に気付くと何気なく逃げ出そうとする。
「……司馬懿殿っ」
 翻った長い袖を引っ掴むに、司馬懿は惜しみなく嫌悪の視線を注いだ。
「何を」
 振り払おうとするのを許さず、逆にその動きを利して司馬懿の懐に飛び込む。
 いきなり間近に迫って来たに、司馬懿はぎょっとして立ちすくんだ。
「朝顔、安いのは本当だけど」
 司馬懿の顔が、むっと顰められる。
「でも、司馬懿殿の窓の朝顔は、紫色の朝顔が咲くようにしておいたからね」
 特別に、と付け足され、司馬懿の目が点になった。
「司馬懿殿だけ、贔屓したんだからね」
 ね、と念を押し、はぴょいと離れた。
 その顔が、ほんのりと赤い。
 走って来たせいかもしれないし、そうでないかもしれない。
 は、来た時と同じ性急さで、司馬懿に背を向け駆け去っていった。
「……何なのだ、まったく」
 そう言う司馬懿の顔もまたほんのりと赤いのを、司馬懿自身は知る由もない。

 が各室で朝顔とゴーヤに分けた理由が、本当は『司馬懿がゴーヤを嫌がるかもしれないから』だと知ったのは、後日ゴーヤの収穫が済んだ日のことだった。
 がうっかり口を滑らしたのである。
 司馬懿は少し腹を立てたらしいが、未だ咲き誇る紫色した朝顔の大輪に、何も言わず口を閉ざした。

  終

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