身分証明も出来ない者が、旅行などできるものだろうか。
 テレビでやっていた旅番組を見ている時、ふとそんなことを考えた。
 海外であればまだしも、国内であれば移動の難易度はぐっと下がる。
 図体の大きいのが揃っている煩わしさも手伝って、は思い切って冒険をしてみることにした。

 貸し切りバスを手配する時、『素人演劇集団の打ち上げ兼合宿』と触れ込んでおいたおかげで、魏延の奇抜な格好も追求を受けずに済んだ。
 一泊二日の温泉旅行と言うことで、迎えは明日来てくれることになっている。
 鄙びた温泉旅館には、達以外の客はあまり居ないようだった。
 もっとも、観光地を巡ってから旅館入りする者も多いだろうから、これから増えるのかもしれない。
 チェックイン時間のずいぶん前に着いて、これ見よがしにロビーでお茶をして時間を潰していたのが幸いしたか、旅館の人が融通を利かせて早めに部屋に通してくれた。
 人数が多くて鬱陶しいことも良かったのかもしれない。
 何せ、蜀将13人プラスという大所帯だ。
 人数はそうでもないのかもしれなかったが、容積体積的にはロビーの気温を確実に一度は上げたと思われる。エコブームの昨今に、地球にやさしくないこと甚だしい。
 ともかく、早速部屋割りをして、各々に鍵を渡す。
「私は、皆様と一緒でも……」
「つっても、せっかくですから」
 諸葛亮と月英を一緒の部屋にした。
 温泉地で新婚旅行というのも何だが、機会を得たのだからのんびりしたらいい。
「お言葉に甘えましょう、月英」
 諸葛亮が珍しく優しい笑みを見せ、月英も頬を染めつつ頷いた。
「拙者達も、桃園の頃に戻ったつもりで楽しみましょうぞ、兄者!」
「そうだな」
 三義兄弟で一室取ることは、あらかじめ決まっていたようだった。
 ホウ統と魏延、関平と姜維と、それぞれの組に鍵を渡していく。
 そして、趙雲が手を差しだした。
「私と、黄忠殿と馬超殿で一組だ」
「あ、う、うん」
 三人部屋の鍵を、趙雲の手のひらに落とす。
「……良いのですか」
 と同室になる星彩が、こっそり話しかけてきた。
「何でしたら、私が趙雲殿と変わっても……」
「いやいやいや」
 仮に星彩が良くても、他の者が駄目だろう。
 とて、勿論駄目だと思う。
 さりげなく月英と諸葛亮の姿を盗み見た。
 せっかくだからの一言は、実はの願望でもある。
 星彩がこうして言ってくれているのも、の気持ちに気付いた上での心遣いなのである。
 は今、趙雲と恋仲だった。
 初めての旅行、例えわずかな時間でも二人きりになりたいと思うのは、極々普通の感情だと思う。
 そして、星彩に言われるまでもなく『準備』を整えている自分が少し恥ずかしくなった。
「……後で、しばらく出てても、いいかな?」
 顔を赤くして星彩に打ち明けるの様に、何か感じ取ったらしい星彩は快く応じてくれた。
 礼を言い、一旦それぞれの室に落ち着くことにした。

 廊下に出ると、折良く趙雲が一人で出て来たところだった。
 は、この機を逃さじと小走りに駆ける。
「あの、趙雲。これから一緒に、お風呂に行かない?」
「丁度いい。私も今、殿のところへお誘いに行くところだ」
 全然ちょうど良くない。
 は、慌てて趙雲の腕を引っ張り、廊下の影に滑り込んだ。
 微々たる力にもならなかろうが、幸い趙雲は逆らわずのしたいようにさせてくれる。
「あの、そうじゃなくて、そうじゃなくてね、その……二人、で」
 実は、旅行の手配をする時に、こっそり貸切風呂の予約をしていたのだった。
 団体旅行であるから、二人で居る時間は早々持てまいと見越し、ならば短くとも濃厚な時間をと、一念発起した次第だ。
 時間も早く、慣れない車での移動で疲れている者も多い。
 風呂を売りにしている旅館だけあって、浴場は幾つかに分かれているから、姿が見えなくともそれ程気にはされないだろうというのが、の見解だった。
 ところがだ。
「貸切風呂か。それはいい、是非殿に入っていただこう」
 忠臣の誉れ高い趙雲は、貸切風呂の話を聞いて即座に劉備に譲ると言い出した。
 愕然とする。
 幾らなんでも、それはないと思うのだ。
 二人で風呂など、破廉恥な発想と内心疎んじられてしまったのかもしれない。
 けれど、本番未だならずとは言え、その手前までは既に済ませている。
 全裸に近い状態に剥かれたこともあるだけに、趙雲の無情さには胸が詰まる思いだ。
 これが、ただ止めよう、皆と旅に来たのだから皆と居ようというのであれば、まだ我慢も出来る。
 だが、間髪入れずに君主に譲ろうとは、それではただのごますりのようではないか。
 より劉備が大切と、頭では分かっていたことだった。
 けれど、こうして実際口に出されてしまうと、『分かっていた筈のこと』が一気に崩れて、壊れてしまう。
 わがままが、堰を切って溢れ出してしまう。
「私より、劉備さんの方が大事なの?」
 馬鹿な問いだと分かっている。
 趙雲も、軽蔑するような冷たい目でを見ている。
 情けなさ過ぎて、は唇を噛んだ。
 自分が、情けなかった。
 趙雲の深い溜息が、の髪を揺らす。
 呆れられてしまった、と思うと同時に、嫌われたのだと痛感した。
 あまりの馬鹿さ加減に、自分を殴りたくなってくる。
 そう思った時には、体が勝手に動いていた。
 ぱん、と高い音がする。
 けれど、痛みはまるでなかった。
 己可愛さに、手加減してしまったのか。本当に情けない。
 と、の頬は何者かにうにゅっと摘ままれた。
「ふひ?」
 瞑っていた目を開けると、趙雲の顔は頑なに強張ったまま、腕から下だけが動いての頬を摘まんでいた。
 自らに下した鉄拳(平手だが)制裁は、趙雲の手の甲が防いでしまったものらしい。
「私の愛する女の頬を叩こうなど、不届き至極」
「……あ」
――あいするおんな。
 趙雲の言葉が、実感なくの鼓膜に沁み込んでいく。
 呆然とするの、ただ光景をありのままに映す目に、趙雲の微かに朱に染まった顔が映し出される。
「お前と殿を、比べられる筈がない。あまり意地の悪いことを言って、私を困らせてくれるな」
 不貞腐れたように眉を寄せる趙雲は、やや恥ずかしそうに視線を逸らした。
「それって……」
 趙雲にしては最大級と言っていい突然の『告白』に、は不思議と泣き出したくなった。
 表情が一転したに安堵したのか、趙雲は軽く咳払いをし出す。
「……で、風呂なのだが、やはり殿にお譲りしようと思う」
「ちょ」
 待て、と突っ込みたくなる。
 今の今でこれでは、『最大級の告白』もをなだめる為の方便にしか思えず、甚だ腹立たしい。
 むっとするに、趙雲もまたむっと眉を顰めて見せた。
 一触即発の不穏な空気が流れるも、趙雲の盛大な溜息が華麗に押し流す。
「何よ」
 露骨に唇を尖らせるに、趙雲は再度呆れたように肩を落とした。
「お前は私に、いったいどれだけ長い時間苦行を与えるつもりなのだ」
「くぎょう?」
 分かっていないを改めて認識し、趙雲は疲れたように壁にもたれかかった。
「……お前は、服を着たまま風呂に入る手合いか。ならばまだしも、よもや普通に風呂に入るお前の姿を、私に見せつけるつもりではあるまいな。まして、それをただ耐えろとは、お前が私を心底憎んでいるのでもなければ、まさかそんな酷な真似をしようなどと、口が裂けても言えるものではないものな?」
 回りくどい。
 それ故に理解するのに時間が掛かったは、趙雲の言が有する意味深さに、かぁっと顔を赤らめた。
 一緒に風呂に入れればいい、少しディープな、楽しい二人の時間が過ごせればいいなと軽い気持ちでいたは、それが趙雲に取ってどれだけ手酷い真似だったのかをようやく理解した。
 その気にさせるだけさせておいて、いざとなったら目の前でお預け食らうようなものだ。
 如何な趙雲と言えど、堪るまい。
 溜まりはしようが、『たまる』違いだ。
「お前が」
 趙雲は一度口を閉ざしたが、堪え切れずに口を開く。
「……お前が、初めての『夜』を、どうしても風呂場で、忙しく済ませたいと言うのであれば、私は構わないが」
 それが、トドメとなった。
 撃沈して深く項垂れるに、趙雲は踵を返し、すたすたと去っていく。
 一人置き去りにされた形ではあるが、それで済ませてくれたのだから優し過ぎる程に優しいと言っていい。
 は、逆鱗に触れるも同然のことを、しかも愚かにも繰り返して言ってしまったのだ。
 怒鳴るのは元より、この場で関係の清算にまで発展したとしても、何らおかしくなかった。
――すごく、考えててくれてたんだ。初めての日のことまで、私なんかより何倍も、ずっと深く。
 大切にされていると思った。
 こんなに大切にしてくれる人を疑って責めて傷付けてしまうなど、もってのほかだ。
 もう、二度とこんな馬鹿な真似はすまい。
 固く固く心に誓った。
殿」
 探していたのか、が顔を上げると星彩がこちらに向かってくるのが見えた。
「……どうかなさったのですか」
 目敏い星彩に、何でもないと首を振る。
 訝しげにを見詰めていた星彩だったが、不穏の空気なしと断じてか、さらりと流してくれた。
 いい子だ。
「そう言えば、そこで趙雲殿とすれ違ったのですが」
 聞けば、顔が真っ赤だったという。
「体調を崩されたのでしょうか。迂闊に湯あたりなされるような方では、ないと思うのですが」
 心配する星彩をよそに、は腹の奥底で悪い虫がもやもやと疼くのを感じる。
――見たい、顔真っ赤にしてる趙雲なんて、もう、超見たいぃ!
 二度と馬鹿な真似はすまい、困らせたりすまいと誓った思いが、早くも崩れ去りそうな気配だった。

  終

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