は一人、熱燗をちびちび呑っていた。
 遠くの方で聞こえていた賑やかな声も、今はだいぶ静かになっている。
 突然現れた呉将達を保護してから、それなりの時間が経っていた。
 けれども、全員が全員、夜は早い。
 どうも、夜更かしが出来ない体質のようだ。起きていなければならない時(例えば、徹夜で麻雀する時とか)には平気で起きているのだが、用がないとなるとぱたっと寝てしまう。
 陸遜によれば、元の世界で行なっていた、夜の警邏などのせいだということだった。要するに、夜襲を含めた戦で培った生活習慣の賜物なのだろう。
 周辺からはある程度離れた立地ではあったが、近所迷惑でなくて助かるには助かっている。
 少なくない人数を抱えた世帯であるから、雑音の程度は無視できないのだ。
「ずりぃ」
 急にドアが開き、顔を出したのは孫策だった。
 鍵を掛け忘れていたことを悔やんだが、後の祭りだ。
「何、酒なら台所にあるでしょうが」
「一人で呑むなよ」
 当たり前のように部屋に入ってきて、の隣に座ってしまう。
 恐らく、『ように』ではなく本当に『当たり前と思っている』のだろう。
 困った男だ。
 酔い潰していた苛立ちが再び目を覚ましそうで、は不機嫌に眉をしかめそうになるのを堪えた。
 帰宅する前、少し寄り道して気を鎮めてきた。
 家に戻ってからは、完璧に『いつも通り』を装って、疲労を理由に早めに自室にこもったのだが、そこまで用心したにも関わらず鍵を掛け忘れるとは、度し難い失態である。
 要らぬ手間だなと内心グチりつつ、表情を作って孫策に向き直る。
「何かヤなことでもあったのか?」
 ずばりと切り出され、は顔を作り損ねた。
 どう誤魔化すかと考える間もなく、孫策は言葉を紡ぐ。
「大喬も気にしてたぞ。何かあったんじねぇかって。周瑜とか、太史慈とか黄蓋とかも。大丈夫か?」
 ばればれだったらしい。
「……他の人がそうして気を遣ってくれてるものを、君は何なんだね」
 開き直って問い掛けるも、孫策は表情一つ変えない。
「つったって、気になんだろ」
 困った男だ。
 触らぬ神に祟りなしの名言を、懇々と説き伏せたくなるが、きっと無駄なのでやめた。
 せめて、酔う前に訊ねてくれたら良かった。
 言ってはならぬと思う心が棘となり、の失言を食い止めようとするのだが、完全に止める前に漏れていた。
「君らには、言わんよ」
 宝くじを当てて以来、どうも職場の空気が悪い。
 大金を得たのだから、奢っても、集っても、暴言吐いても目障りだから退職してくれてもいいのではないかといったような、有言無言の圧力が掛かっている。
 多分に自意識過剰も混じってはいると思うが、その手の会話を振られることがとみに多くなっていた。
 変わらぬ人も居るには居るが、変わった人の方が圧倒的に多い。
 ほんのちょっとしたおねだりのつもりな人が多いのだが、対する人数と回数が増えれば当然負担も大きい。
 呉将全員を養っているとすれば、いつなくなるとも知れぬ泡銭を当て込んで収入を失う訳にも行かず、努めて雑音を耳に入れぬよう自衛するより他なかった。
 気のせいだと思えば耐えられる。
 けれど、許容範囲を超えた暴言を吐かれれば、やはり気にせずにはいられない。
 突然異世界に放り出された呉将らの不安を思えば、彼らが気に病むような愚痴を持って帰る訳にもいかなかった。
 不意に、孫策が身を乗り出してくる。
「……ちょ、何?」
 孫策は答えず、更に身を乗り出してくる。
「何って」
 避けなければぶつかりそうな勢いに、は背を反らして孫策をかわそうとする。
「いや、ちょっと……」
 孫策が何やら呟くが、何が『ちょっと』なのだか分からない。
 避けようがなくなって、手をすべらせて倒れ込む。
 そこへ孫策が覆い被さってきて、の上に濃い影を落とす。
 口が塞がれた。
 反射的にもがくも、孫策の手が許してくれない。すぐに押さえ付けられて、身動きが取れなくなった。
 勝手気ままに蹂躙される。
 角度を変えて食まれる唇の中に、何度も舌が突き込まれた。
 孫策の舌だと察することは出来るが、どうしても理解が出来ない。
 何をされているのか分からないまま、次第に体の力が抜けていた。
 しばらくして、前触れもなく孫策が離れていく。
 の体を跨ぐようにして膝立ちしている孫策は、困惑を極めたような複雑な表情を浮かべていた。
 何故か、旅に出るべきか出ざるべきか、そんなことを思い悩んでいる旅人を思わせる。
「今日は」
 ぽつ、と呟いて、沈黙が落ちる。
 今日は。
 今日は、何だというのか。
 無言で言葉の続きを待つの視線を避けるように、孫策は肘の辺りで乱暴に顔を擦り上げると、急に立ち上がって出て行ってしまった。
 訳の分からぬ疲労感に襲われて、はそのまま床に転がる。
 カーペットの上だったから寒くも冷たくもないが、ちくちくした感触が鬱陶しい。
「……?」
 しばらくして、今度は孫権が入ってきた。
 孫策がドアを開けっぱなしで出て行ってしまった為、部屋の中が覗ける状態になってしまっていたのだろう。
 さっさと閉めに行かなかったが迂闊だ。
 返事をするのが面倒で、おざなりに手を上げる。
 恐らくは渋い面持ちの孫権が、ずかずかとの傍らに歩を進める。
「幾ら己の室とは言え、自堕落にも程がある。牀で眠らないか、牀で」
 言うなり、軽々とを抱き上げてしまう。
 起き上がれない訳ではなかったから、頭ごなしに叱られるのは少々癪だったが、床で大の字になっていたのは事実なので反論しようがない。
 孫権はをベッドに下ろすと、甲斐甲斐しく毛布を掛けてくれる。
「……ごめん、ありがと」
 小声ながら礼を言うと、孫権と目が合う。
 妙に熱っぽい目の色に、理由もなく危険を察知した。
 唇が押し付けられ、瞬間肩が跳ね上がる。
 浮いた肩は、すぐにベッドに押し付けられ、はしばらくの間孫権にされるがままになっていた。
 濡れた感触が離れ、冷気が沁みるのを感じて目を開けると、孫権の紅潮した頬が目に映った。
 息が軽く上がっている。
 興奮してるなぁと、ぼんやり考えた。
 されちゃうかな、と埒もなく考えていた時、廊下の方でみしりと音がした。
 孫権が、比喩なしで跳び上がる。
 うろたえた姿をの目の中に見出したと思われた途端、それまで熱に滾っていた孫権の目が、みるみる内に冷めていった。
「う、その、……すまん」
 逃げ出すような勢いで廊下に飛び出す孫権の足音を聞きながら、は指先をそっと口の辺りに回す。
 何か今日はおかしいな、と、ドアに目を向けると、相変わらず開け放してある。
 このまま寝るにせよ、ドアを閉めずにはろくに安眠もできない。
 よっこらせと起き上がると、孫堅がひょっこり顔を出した。
 思わずうんざりしてしまう。
「そう、露骨にするな。お前が悪い」
 許可なくずかずかと入ってきた男に、何でそんなことを言われなくてはならないのか。
 むっとして口を尖らせるに、孫堅はくすりと悪戯っぽく笑った。
「いつも虚勢を張っているお前が、これ見よがしに弱って帰ってくれば、皆が気にして当然だろう。まして、我等はこの世界では無力なのだからな」
 らしくない言葉に、は目を見開く。
 孫堅は再び笑みを浮かべたが、自棄気味の自嘲にしか見えなかった。
「そうだろう。乱世であれば、お前の身を守ることぐらいは出来ようが、この世界は平和に過ぎる。刃からお前を守る機会は皆無と言っていいし、目の届かぬところで言葉の刃に晒されるのでは、我等とて守り様がない」
 確かに、そう言われればそうかもしれなかった。
「気にしないで、いいのに」
 それしか言いようがなかったが、唯一無二の慰めにも関わらず、孫堅の自嘲は消えなかった。
「成すべきこともなく養われるだけの身では、相応に負い目を感じるのだ。埋めようもない負い目を埋めるとなれば、、お前はどうなると思う?」
 分からない。
 首を傾げるに、孫堅の顔が迫った。
 何故か、逆らおうとは思えなかった。
 答えに興味があったからかもしれない。
 触れるだけの口付けはすぐに終わり、孫堅は何事もなかったかのように元の位置に戻った。
「負い目を、負い目ではない別の感情にすり替えるのだ。安易なところでは、恋情といったものにな」
「……あー」
 酷く納得がいった。
 孫策や孫権の奇行は、正にそんな感情の発露だったのだ。
 面倒を見られているだけ、という如何ともし難い負い目に対し、愛情というお返しをすることが出来るからだ。
 この際、要る要らないは関係ない。
 返すものがあるという事実が重要なのだ。
「……あれ、いや、ちょっと待ってよ?」
 その理屈で言うと、同じ条件が揃っている面子が他にもいることになりはしないか。
 渋面から察したのか、孫堅は重々しく頷いて見せる。
「まぁ、そういうことだ。さすがに、黄蓋や俺はその辺を弁えているがな。若い連中には、隙を見せぬように気を付けるがいい」
「いや、ちょっと」
 黄蓋はともかく、『俺』は今さっき、『そんな感情』を『発露』して見せたばかりではないか。
 無言の視線に肩をすくめて応え、孫堅は堂々言い放つ。
「一緒にするな」
「いやだから、ちょっと待とうって」
 しかし、孫堅はもう何も答えようとはせず、さっさと出て行ってしまった。
 一応、ドアは閉めていってくれている。
 厄介なことになったと、は眉根を寄せた。
 当の問題は、自身ではなく向こうの方にある。何もしなくていいと言って、納得してくれるとは思えない。
 家事ならば、二喬並びに尚香が(とりあえずではあるが)やってくれている現状だ。他に出来ることは、考えても見付からないというのが本音だった。
 だが、見付けなければならない。
「面倒だな」
 起き上がって銚子を傾けるも、景気悪く滴が二三滴ほど零れただけだった。
 もう寝てしまおうかとドアに目を向ける。
 鍵を掛けたいが、またぞろ誰やら入ってきたらどうしようと思うと、立ち上がる気力が出なかった。
 会社での緊張感とは別の緊張を強いられる日々の幕開けに、は、ただただ溜息を吐いた。

  終

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