冷たい感触に、が重い瞼を開けると、細長く連なる影の向こうに見知った顔が映った。
「曹操殿」
思わずその名を呟くと、曹操は己が指の間から苦い笑みを浮かべて見せる。
「今はお主の懐で天下のお零れに預かろうとする身。たかが一家臣に対して、『殿』呼ばわりはあるまい」
家臣のものとしては決して相応しくない口調で、主君を諌めようという曹操の矛盾に、は笑みを浮かべて応えた。
との戦に敗れ、流離った後、再び相まみえた曹操は、臣としてに仕える屈辱を受け入れた。
当のが望んでそうしてもらったことだが、まさか一度の召喚で応じてくれるとは思ってもおらず、実際に面会した折にも驚きを隠せぬままだった。
曹操なりの小さな復讐だったのかもしれないし、その人となりに見合った合理的な思考に基づいての結果かもしれない。
本当のところは曹操しか知らぬ事実ではあったが、問うたところで答えてくれる男でもない。
ともあれ、の臣に名を連ねた曹操は、文句も言わずに副将の身分に就き、他の者に文句を言わせぬ戦功を重ねて今は大将軍の地位に就いている。
太守として昇格を打診した時は、何故か簡潔に断られたものだ。
曹操が離れてしまうことに若干の寂寥を感じていたとしては、その曹操の決断は実はとても有難かった。
理由は、のみが知っている筈だが、実のところは判然としていない。
こんな曖昧な部分が、曹操の持つ精密さを欲するのかもしれない等と、そんな風に考えている。
「未だ、高いようだ」
熱のことだろう。
昨夜より、体調を崩して臥せっている。
「天下統一未だ成らずというのに、呑気なことだ」
「……どうも、申し訳ない」
が詫びると、曹操の目が鋭く細められた。
「詫びるくらいなら、早う治していただかねば」
「善処する」
本当に、曹操の言うとおりだ。
早く治して治世に努めねばと思うと、自然に瞼が閉じた。
医師によれば、疲労が体に蓄積したのが病の原因とのことだった。
ならば、眠って治すのが一番いいに違いないのだ。
何より体は正直だと、は素直に感心していた。
「そうしていただけるならば何より。では、儂も些少の手助けをしよう」
と、唇に何かが触れた。
冷たくはないがしっとりとした、心地良い感触だった。
ぱっと目を開けたものの、曹操の手により視界は完全に闇に落ちている。
手が退けられ、明るくなった視界には、曹操の姿は既に遠くに消えつつあった。
「良いようなら、また手助けするとしよう。それまで、休まれるが良かろう」
あぁ、と頷いた声が届いたかどうかは定かでない。
それでも、曹操には伝わったと確信があった。
満たされる想いが胸に広がる。
良い臣を持ったと、そんなことを考えていた。
自分が一体何をされたか、が覚るに至るまでには、熱はまだまだ高いのだった。
終