趙雲という男は、身内になればなるほど冷ややかになる男なのかもしれない。
そんな風に気付き始めた。
新兵として軍に配属になった頃、直接のお声掛けを有難いとは思ったものの、あまりに心の篭っていない言葉に何処か釈然としないものを感じていた。
武を鍛え知力を磨くことにより立身出世を果たし、時折お褒めの言葉にも預かるようになったがしかし、趙雲の言葉はますます醒めたものに感じられた。
元来この人は外っ面がいいのだ。
他の軍の兵士達の方が余程趙雲を慕っている気がする。
とは言うものの、趙雲の手下から不平不満を聞いたことはなく、ではやはり自分だけなのかと複雑な思いに駆られた。
趙雲が自分を頼りにしていないとも思わないが、では頼りにしているかと言うとはなはだ心許ない。
副官まで昇り詰めた以上、今更他の軍に飼われようとか他国へ自分を売ろうなどとは露ほども考えてはいない。
ただ、この上は更に昇り詰めて一軍を率いるようになりたいというのが、目下のの願いだった。
考え事に耽っていたせいでずり落ちかける脇の竹簡を抱え直し、は次の戦仕度をするべく私室に向かっていた。
副官になってもう随分経つ。そろそろ軍功次第で夢が叶うかも知れない。
頑張らなければな、と思考に一区切りをつけると、廊下の向こう側からホウ統がゆらゆらと歩いてくる。
向こうもに気が付いたようで、よう、と気安く声掛けてきた。
「次の戦の仕度かね」
「はい」
笑みを浮かべて答えると、ホウ統もにっこりと笑って返した。
「いやぁ、戦前ともなれば大抵の将はぴりぴりしているかやたらと落ち着かないかのどちらかが相場だが、たいしたもんだ。さすがは趙将軍の副官と言ったところかね」
趙雲は関係ないと思うが、褒められていることに違いはないので嬉しかった。
「はい、次の戦でも必ずやお役に立ってご覧に入れます」
軍師の中でも、ホウ統はを高く買ってくれている。お褒めの言葉の他にも、こっそり色々な物品を贈ってくれたりした。
何時か何かの時の為の仕込みなのだろうとは思ったが、わずかだとしても見込んでくれるのは嬉しかった。
頼もしいねぇ、と目を細めるホウ統は、しかしがっかりしたように肩を落とす。
「お前さんなら、一軍を率いても十分な働きをしてくれると思うんだがねぇ……どうしても決心は付かないかい?」
何と言って誤魔化して、何と言って別れてきたか判然としない。
ただ、は私物を携えたまま趙雲の室に直行していた。
豪胆なのか、それとも少ない兵の疲弊を嫌ってか、趙雲の室にはいつも見張りがいない。
却って幸いだばかりに中に押し入ると、趙雲は蝋燭の灯りの元で幾つかの竹簡に目を通しているところだった。
「何用だ」
誰何も問わずに声掛けてくるところをみると、相手がだということは判っているらしい。
は怒りに震えそうになる声を必死に律した。
一軍を率い、蜀の為に尽くしたいという密かな夢を、ずっと前から趙雲が握り潰してきたことを初めて知った。
以前から信用の置ける将を手元に置きたいと願っていたホウ統は、趙雲に何度となく打診してきたらしい。
まだ早いの人事の都合の、取り繕って断っていた趙雲から、先日の口から一生趙雲の許で働きたいからと断りを入れてもらえるよう請われたとの返事が返ってきたそうだ。
何処のに訊いたのだか知らないが、あんまりだと思った。
「ホウ統様から伺いました」
察しろと目に力を篭めて趙雲を見遣ると、趙雲もようやく竹簡を下ろした。
「それで」
よくも抜け抜けと、とは怒りを律している己が馬鹿のように思えてきた。
「私は、お話があったことも存じませんでした」
「お前を手放すつもりはない。今お前に抜けられては我が軍の維持に支障が出る」
「他にも副官は居りましょう」
「副官達を束ねているのもお前だということを、忘れているようだ」
するりと流される。まるで手応えがなく、到底を納得させる返答ではなかった。
「ならば申し上げます、他の副官達も近頃富に力を付け、武力知力の双方に置いて私の穴を埋めるに相応しい実力を持ちつつあります」
「知っている」
ならば何故!
吐き捨てたい心境に駆られる。
最早話し合いにもならないと踏んだは、一礼して退室することにした。
その手が取り押さえられ、力強い腕で抱き留められる。
「お前は私の許で此度の戦を終わらせるのだ」
「……承知しております」
けれど、この戦が終わればわからない。ホウ統に願い出て、是非にと懇願すれば如何な趙雲とて無粋な手出しは叶うまい。趙雲の顔に泥を塗ることになるが、それも身から出た錆となれば、致し方ないことだ。
続く趙雲の言葉に、は一遍に思考を四散させられる。
「その後は、私の妻として、私のすべての補佐をしてもらう」
身を固くして動きを止めたを、趙雲は抱きかかえて暗闇へと引き摺り込んだ。
身内になればなるほど冷たくなる。
これは存外的を射ていたらしい。
事を済ませて眠りに就く趙雲の顔は、何時にも増して端整で冷めていた。
だが、を抱き込める手の力は眠りに落ちても尚強く、を捕らえて離そうとはしなかった。
終