小覇王。
その名が古の『覇王』に準えて付けられた異名であることを、は知っている。
けれど、その名を孫策があまり喜んでいないことも知っている。
響きはいい。
天下を統べる覇王という言葉は、何と魅力的で耳に心地良いことか。
だがしかしである。
古の『覇王』は、天を統べることなくこの世を去った。
謀略と自身の傲慢によって、その身を天の王座に就けることなくこの世を去ったのだ。
愛する人を死に追いやり、かつての味方に周囲を囲まれ、削り取られていくわずかな数の同胞達の死に追い立てられるようにして、死んだ。
その覇王に、さらに『小』の字を被せて異名される。
婉曲かつ壮大な嫌味と気付く者が何人居るだろう。
だから、はその名で孫策を呼ぶことはない。
伯符様、と呼んでいた。
昔は伯符、と呼び捨てだった。
大喬を娶るに当たり、伯符様と呼び改めた。
初めてそう呼んだ日の彼の顔を、今でも忘れない。
驚いたような、怒ったような、寂しいような、それらすべてを綯い交ぜにしたあの顔を、きっと一生忘れないだろう。
奥方を娶られるのだから、と言ったに、孫策が何と答えたのかだけは何故か思い出せない。
何も言わなかったのかもしれない。そんな気もしていた。
目当ての人物は、葉が生い茂った枝木の上に隠れるようにして居た。
「伯符様」
呼びかけると、しまったというように悪戯っぽい笑みを浮かべる。
その笑顔が昔から好きだった。幼馴染の友として。
「登って来いよ」
文句を言うと、さては尻が重くて登れなくなったかなどと不当な責めを受ける。
昔はの方が木登りが得意だったのだ。
腹を立ててするすると登ってみせると、孫策は手を叩いて喜んだ。上手く乗せられてしまった気がしないでもない。
「何をしてらしたんですか」
ん、と顎で指し示される先には、広く遠大な揚子江が広がっていた。
「俺の土地を、見てた」
嬉しそうな、それでいてただ憧れるような視線をは見詰める。
巷で言われるほど単純な人ではない。素直な気質ゆえに複雑な人の心の機微を必要以上に察することもある。
支えてあげなければ。友として。
「もっともっと遠くまで、この空の下の何処までも俺のものにする」
大言壮語と儒学者どもは詰りおるかもしれないが、孫策ならばその言葉を実現してくれそうな気がした。
「微力ながら、お力添えいたしましょう」
うん、と孫策が頷き、揚子江を見詰めていた視線をに向けた。
振り返ったまま、無言でを見詰める孫策に、はただ笑みをもって応える。
「支えてくれるか?」
「はい、無論」
友として。
笑みを絶やさぬに、孫策は何か物言いたげな目を向ける。
言いたいなら、口に出して言うだろう。
半ば決め付けて笑みを浮かべ続けるに、孫策は気圧されたように視線を落とした。
ほっとしている自分がいるのを、は気付かぬ振りをした。
「誰がどう思おうと、どう呼ぼうと関係ねぇ。俺は、孫伯符として、孫家の嫡男としてこの天を手に入れるぜ」
ぽつりと呟く言葉は、その意味するところとは違って酷く惑っているように感じられた。違和感を感じたのだ。
返事が遅れたのはそのせいだ。間を捉えかねて、は返事をする契機を逸した。
「……、俺に着いて来てくれるよな」
「はい、無論。無論です」
今度はちゃんと言えた。勢い込み過ぎたせいか、孫策の目が微妙な色を浮かべた気がする。
「……まぁ、今は、それでいっか」
今は。
今は、とは?
問い詰めたかったが、問い詰めては取り返しがつかないと思った。
言葉を封じて、黙り込んだ孫策の隣でもまた黙り込んだ。
終