亡き戦友の眠る墓石の前で、周泰は杯を掲げている。
 夕日の朱が空を染め、差し込む黄金の光が周泰の横顔に影を落としていた。
 近寄りがたい、聖域めいた空気がそこにあった。
 周泰の目には目前の墓石はただの石ではなく、亡き戦友その人に映っているのだろう。
 は周泰に声を掛けることもなく、来た道を引き返し始めた。

 戦が終わってしまえば、文官の立場では周泰と言葉を交わす機会がぐっと減ってしまう。
 そのことを気に病み、己を奮い立たせて来ただったが、墓前の周泰の姿に意気地なく引き下がらざるを得ない。
 呉の勝利の為に命を投げ出した人々をないがしろにしてしまった思いがして、自分が恥ずかしかった。
 もう、何と言って声を掛けようと思っていたかも思い出せない。
 わずかな間とは言え、側に在り、言葉を交わしたこともある。
 それでいいじゃないかと自分を戒めた。
 出自は水賊だが、今の周泰は当主孫権の信頼も厚い生え抜きの将である。文官とは言え端くれもいいところの己とは、身分が違う。
 立身出世にばかりかまけて、女の資質を磨くことのなかったには、周泰に振り向いてもらう自信など欠片もなかった。例え告白出来ても、周泰には重荷になるだけだろう。
 戦勝祝いの宴に出る気もせず、早々に執務室に篭もり戦後の物資整理の書簡を仕上げることにした。より上の位の人々は半ば強制的に宴に引っ張り出されていたし、このままでは執務が滞ることが目に見えている。多少遅くなっても残業なりすれば良いのだろうが、だったら少しでもその量を減らしておいたに越したことはない。報告の書簡を整理し、残数をまとめておくならにもできる。
 暗くなった執務室の片隅で、燭台に灯りを点す。
 山積みの竹簡の中から目当てのものを探し出していると、不意に執務室の扉が開いた。
 周泰だった。
 息が詰まる気がして、事実小さく気管が鳴った。
 の驚いた顔に、周泰はわずかに戸惑ったようだ。あまりに驚き過ぎたかもしれない。
「申し訳ありません、あの、誰も来ないと思い込んで、おりましたので……」
 言い訳がましく頭を下げると、周泰は軽く手を掲げてを留めた。
「あの、何か……」
 入用な書簡でもあったろうかと首を傾げると、周泰はの視線をはぐらかすように執務室の中を見回す。
「……お前だけか……」
 周泰の言葉に、は慌てた。
「いえ、あの、私は少し体調を崩しているものですから」
 仕事を押し付けられていると思われてはかなわない。でなくとも、宴に出ていないことを非難されるのも悲しい。ただ、今日は一人で居たかったのだ。
 取ってつけたような言い訳だったが、周泰は黙っての顔を見つめた。
 無口かつ表情をあまり出さない人だったが、自分を心配してくれているのが分かって現金にも嬉しくなってしまった。
「……あの、それほど加減が悪いわけではありませんから……将軍は、どうぞ宴の方へ」
 周泰が居ないのでは、孫権も心配するだろう。
 の勧めに周泰はしばらく躊躇していたようだったが、やがて静かに頷いた。
 踵を返す周泰に、はほんの少し胸が痛むのを感じた。
 今生限りの別れではないのだから。
 影ながらこの人の姿を見守るぐらいなら、きっと差し障りもなかろう。それくらいは許されてもいい気がした。寂しげな、自嘲めいた笑みが浮かぶ。
 と、突然周泰が歩みを止めた。
 くるりと振り返り、何を思ったかの元に戻ってきてしまう。
「……明日は……」
 明日?
 周泰の言わんとするところが分からず、は目をぱちくりと瞬かせた。
「……明日は……出られるか……」
 戦勝の宴は一日程度では終わらない。ここ数日宴は続いていたし、もう数日続くだろう。明日行われる宴には出られるのか、周泰はそう尋ねているのだ。
 ようやく理解できたが、何故周泰にそんなことを尋ねられるのか、その理由に思い当たるところがなかった。
 困惑し、曖昧な笑みを浮かべ首を傾げるに、周泰は思いがけぬ表情を見せた。
 赤くなったのだ。
 日に焼け、浅黒い肌が艶めいて薄く染まる様を、は信じられないものを見る思いで凝視する。
 周泰はうろたえ(うろたえる周泰というものを見るのもこれが初めてだった)、口元を押さえた。
 重苦しい沈黙が落ち、その重みに潰されるように二人は押し黙る。
 沈黙を破ったのは、周泰だった。
「……お前に……伝えたいことがある……」
 周泰の言葉に、もはっと顔を上げる。
「あの、私も」
 私も、貴方に伝えたいことがあるんです。

 周泰が戦友の墓の前で、今度こそに想いを伝えるのだと誓っていたことを、はずいぶん経ってから聞くことが出来た。

  終

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