戻ってきた黄蓋は、全身傷だらけだった。
周瑜の策を更に確実にする為とは言え、わざと全身を鞭打たせ、満身創痍となった挙句に炎が焦がす戦場を駆け抜けたのだ。当たり前といえば、当たり前だった。
それでも胸を張り、仁王立ちしてを睥睨する黄蓋が浴びせられたのは冷たい井戸水だった。
思わず悲鳴を上げる黄蓋に、は構わず水を被せ続ける。
「や、やめんか!! 何をしておる!!」
「何って、ご覧の通りですよ、そんな血塗れ煤塗れで帰って来るんですもの、流すしかないじゃありませんか」
流すしかないのは譲歩するとして、何も桶に汲んだ水を次から次にぶちまけて寄越さずとも良いと思う。
は、一応黄蓋の妾と言うことになっている。妻を亡くしてから、娶るわけでなく側に置いていたのだが、とにかく気が強い。そこらの男では相手にならない程だ。
よくもまあ、あんな女を手元に置いておける。
を知る者は、皆そう言って黄蓋の偉力を褒め称える。
一部の者は、黄蓋だからあの女もおとなしくしているのだろうなどと嘯いてくれるが、黄蓋を前にしてもこの通りで、別におとなしくも愛想を売ってくるわけでもない。
そのことを知る者は黄蓋の胆力を褒め称えるが、黄蓋とての為すがままに翻弄されるのが常で、そのたびに驚くは慌てふためくはなので面映いばかりだ。
何も知らない者達は、好き勝手なことを言いおる。
言われるたびに黄蓋は渋い顔を隠せず、構わぬでもらいたいと切実に願っていた。黄蓋は、を気に入って手元に置いているわけで、脅されて側に置かざるを得なくなったわけではない。
口うるさい者達に好き勝手を言わせないように、を妻に迎える心積もりもある。娶らないでいるのは、がそれを望まないからだ。
自分のような女は、黄蓋には相応しくない。
そう言ってきかない。
足元に並べた桶が全部空になり、黄蓋の体に付着していた血糊と煤が粗方流されてしまうと、は奇麗な麻布で黄蓋の体を包んだ。
麻布に薄茶色の染みが浮かぶ。水気が吸い取られると同時に、煤や泥が塞いでいた傷口が開いたのだ。
は小さな壺に手を差し入れると、中から濁った緑色の粘液を掬い上げ、黄蓋の体に塗りたくった。
「あだだだ、もう少し優しくできんのか。こんなものより、酒を出してくれ」
塗り薬よりも酒の方が効く、と笑う黄蓋に、は惜しむこともなく白い目を向けた。
「酒なんか、当分お預けにしなけりゃあ。こんなずたぼろで酒だなんて、よくもまあしゃあしゃあと」
更に乱暴になった手付きに、黄蓋は小さな悲鳴を上げて身をよじった。痛いのは痛いのだろうが、半ばふざけておどけて見せているのは、その表情から知れた。
の手が止まる。
「……?」
壺が落ち、地面に緑色の染みが広がった。
「……汚れるぞ」
は黄蓋の背に手を回し、力いっぱいしがみつく。その指先が傷口に触れ、微かでいて鮮烈な痛みを黄蓋に伝えるが、黄蓋は気にしなかった。
塗り薬でどろどろになるのも構わず、黄蓋の胸に顔を埋めてすすり泣くの髪を撫でた。
黄蓋は武人だ。いつ戦地で果てるとも知れない。
を娶りたい、だが、武人の妻としてそれだけは覚悟をしてくれと申し出た黄蓋に、は敢然として拒絶した。
貴方が死んだら生きていけない。
だから、私は相応しくない。
貴方の妻にはなれっこない。
だから、死ぬことは許さない。
声を殺して泣くを、黄蓋の死に怯えて震えていただろうその体を、黄蓋はただ抱き込めた。
終