必要な連絡事項の申し送りを済ませると、司馬懿はふと顔を上げた。
 いつもは申し送りに合わせて書簡を読み耽っているはずの曹丕が、じっとこちらを見つめている。
 ただでさえ目付きがきついと恐れられている曹丕の視線は、司馬懿の動揺を容易く誘った。
「……何か」
 軽く咳払いをして誤魔化しつつ、さりげなく水を向けると、曹丕は小さく頭を振り、しかし捨て置けぬといった塩梅で再び司馬懿を見つめた。
「本当に、良いのだな」
「は?」
 言わんとすることを察することが出来ず、司馬懿は軽く眉を顰めた。
 その様をどう受け取ったのか、曹丕は『ならば良い』と一人で納得し、俯いてしまった。
 用事が済んだのにぐずぐずしているわけにもいかず、司馬懿は触りの悪い疑問を抱えたまま、退出せざるを得なかった。

 司馬懿が執務室に戻ろうとすると、向こうから夏侯淵が歩いてきた。
 襟を正して謹厳さながらに挨拶を述べると、夏侯淵は日頃の愛想の良さに更に輪を掛けた笑みを浮かべ、人懐こく司馬懿の肩を叩いた。
「よぉ、おめでとさん!」
 何か手伝えることがあれば遠慮なく言ってくれ、と言い残し、夏侯淵は大きな声で笑いながら立ち去っていった。
 司馬懿には、何が何だかさっぱりわからない。
 曹丕といい、どうも今日はおかしな日だと思っていたのだが、これで済みはしなかった。
 中庭で出会った徐晃は、どこか困惑したように頭を下げ、軽率だったと詫びてきた。
 軍備の打ち合わせをするべく赴いた張遼の元では、非常に驚いた、と一言呟かれた。
 調練に赴く途中にすれ違った夏侯惇は、単に挨拶を交わしただけだが、その目が非常に痛々しいものを見るかのようで、とにかく誰も彼もが司馬懿に対して何か含むところがあるかのようなのだった。
 何の話か、と一言問いかければ済むだけの話なのだが、悲しいかな、司馬懿の誇り高さがそれを許さない。これだけ多くの者共が、恐らくは同じことに関してそれぞれの思いを口に、あるいは態度に出すからには、司馬懿が知らないわけがない。
 さては、下らな過ぎて思い当たる節がないのかもしれないと、瑣末な記憶も逃さぬように思い出そうと試みていると、衛兵が来ての訪問を告げた。
 末席とはいえ、女ながらに将軍の位を奉職するは、行軍の速さから司馬懿が重宝している者の一人だ。口は生意気だが、そこそこ整った容姿で兵達にも人気がある。
 司馬懿などは、皮膚の美醜が何になるとその点のみは気に入らなかったが、他の将軍の受けがいいのはその為と思われ、だから口に出して文句を言うものでもない。
 軍の調和は、軍師にとって最大の押さえどころの一つなのだ。
 せいぜい利用するだけはしてやろうと思っている相手だけに、邪険にするわけにも行かず案内させた。
 室内に入ってきたもまた、微妙な表情を浮かべている。
「……司馬懿殿、あの、本当によろしいのですか」
 常の喧々とした口調は鳴りを潜め、何処か恐れるような、だが確かめずには居られないという性急さを含んだ問いかけだった。
 何がだ、とはやはり言えなかった。
「撤回するなら、早い内が良いでしょう。今なら、まだ酒の席の戯言で済みます」
 重大な示唆を含むの言葉に、しかし司馬懿は却って眉を吊り上げた。
 酒に呑まれるような私ではない。酒の席で言ったことだから、ではなく、酒の席で言ったことでも、あの司馬懿が言ったなら、と讃えられるべきが己だという自負がある。
「撤回など、せんわ」
 きっぱりと言い切った司馬懿に、はおろおろとしだした。
「……でも、時勢から言ってもまだ早いのでは」
「うるさい、私の言に間違いなどない」
 如きが時勢を語るなどと、おこがましいにも程がある。
 他に用がないなら下がれと冷たく言い捨てるのだが、は執拗に食い下がった。
「だって、本当に私でいいのですか」

 喚き出したの話を何気ない振りで聞きつつ、食い下がって当たり前だったのだと、司馬懿は密かに冷や汗をかいた。
 酒の勢いで、を嫁に迎えると宣言したという己を、叶うものなら殴りつけてやりたい。
 更に、が珍しくしおらしげに、自分はとても嬉しかったと呟いたせいで逃げ口上も戒められた。
 渋い顔を作り、重々しく頷くのが精一杯だった。

  終

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