夏のうだるような暑さが鳴りを潜め、秋の涼やかな風に気付く。
 月は夜空に煌々と在り、流れる薄い雲を絹のように纏っていた。
 関羽は一人、城を抜け出していた。
 武神と謳われる身とは言え、無用心にも程がある。あるがしかし、そうせずには居られない事情があった。
 関羽の副官であるが、密かに城を抜け出すのを見たと関平が告げに来たのはつい先刻のことだ。
 時期柄、そして場所柄、それは非常に誤解を招き易い、否、招かざるを得ない行為だった。
 呉との緊張は小競り合いを交えて日に日に増している。関羽の守るこの荊州は、正にその火種中の火種なのだ。疑心暗鬼になりがちな文官を一喝して、漸う平穏が保たれていると言っても過言ではない。
 が一人城を抜け出したことが知れれば、即座に呉の、あるいは魏の手先、埋伏の毒だと騒がれかねない。それが分からぬではあるまいと思っていたから、うっかりと見つけてしまった関平の惑いは激しかったようだ。
 関羽に直接相談に来たのは良いとして、の赴く先を確認しなければ何にもならない。
 所詮は武官なのだと揶揄されても、これでは言い返すことも出来ない。
 関平も、報告している最中に気が付いたようだが、所詮後の祭りだ。
 浮き足立つ関平に任せるよりは、と関羽自らが城を出た。関平には城の守りをきつく言いつけ、関平も平伏して従った。
 本当なら、少しでも人手が欲しいところだった。関平だけでも連れて行きたいところだったが、そうもいかない。城を見捨てるような関羽でないとは理解していようが、呉との激しい衝突とのらりくらりとした策の遣り取り、加えて魏との継続的な戦闘で人々は疲れているのだ。こんな時に関平を連れて城を出れば、小賢しい者共が分別ある振りをしてしゃしゃり出てくるに違いない。
 関羽は、己自身の苛立ちも十分自覚していた。
 に寄せる信頼が厚かっただけに、今回の軽挙が甚だ許せずに居た。
――め、何をしているか。
 思えば、ここ最近の様子がどことなくおかしかったようだ。まさか、真実埋伏の、と考えていた時だ。
「……わあぁ――――――――――――っっっ!」
 ススキ野原の向こうから、一瞬にして思考を吹っ飛ばす勢いの怒鳴り声が上がった。
 確かに、の声だった。

 関羽の声は大きくはなかったが、途端に辺りはしんと静まり返った。
 ざわざわと揺れるススキの中から、がこちらを凝視している気配が伝わってきた。
「か、関羽様?」
 驚愕のあまり動揺したのか、声が震えている。
「何をしている」
 かなり要略していたが、関羽の言葉の調子から己の重大な失態を察したか、は深く落ち込んでいるようだった。
「……処罰は……どのようにも……」
 やがて返ってきた声に、関羽は呆れるばかりだ。
「何をしていたのかを問うているのだ。……ともかく、そこから出てくるが良い。土竜に話しかけているのではないのだぞ」
 常ならば、関羽の命には絶対服従し、決して逆らわないが妙にぐずぐずとしている。

 重ねて催促すれば、それでもわずかに間を空けて、がススキの間から顔を出した。
「……酔っているな」
「……はい」
 申し訳なさそうな、悲しそうな顔をして、何か息苦しそうに立っている。
「言え」
「……酒を、呑んでおりました」
 それは分かっている、今確認したばかりだ。関羽が問いたいのがそんなことではないと分かっていて、敢えてそんな返事をする。
 無為に部下を叱責することはない関羽も、この時ばかりは堪えもしなかった。
「得物を構えよ、
 重々しい声に打ち据えられ、の肩がびくりと跳ねた。

 関羽の打ち込みは鋭く、早く、そして重かった。
 敵の攻撃を華麗にかわし、翻弄することを基として戦うも、関羽の繰り出す痛撃にいいようにあしらわれてしまう。
 は悔しげに唇を噛み締めつつ、それでも関羽に立ち向かうのを止めようとはしない。
 並みの男であれば、とっくに降参しているだろう。女の身でありながら、は武を志す者なのだ。
 であればこそ、関羽はを手元に置き、副官として厚く信頼をした。はその期待を臆することなく受け止め、武の貴きを目指し一途に邁進していたはずだった。
 近頃のの様子がおかしかったのも、目指す道の険しさからなる壁に突き当たったのかもしれない。
 ならば、気付かぬでいた拙者が愚かか。
「あっ!」
 青龍刀がの剣を弾き、その勢いのまま虚空へと奪い去る。
 剣を失ったは、血の気を失い青褪めると、静かに涙を落とした。
 女の身であっても武を志す身に変わりはない、と思っていたが、それは間違いであったやも知れぬ。
 の涙を見つめ、関羽は深く自省していた。
 女なのだ。男の膂力に拮抗する術のない、か細く愛おしむべき身だ。
「荊州を、去るか」
 このまま、もしそう望むなら、叶えてやりたいと思った。何故そんな風に思ってしまうのかも定かでない。けれど、心の底からそう思う。
 だが、は失望したように眼を閉じると、小さく唇を開いた。
「それくらいなら、この場で斬り捨てて下さいませ」
 涙が留まることを知らぬげに零れ落ちる。
「いえ、斬って下さいませ。斬って欲しいのです。叶うなら、どうか、どうかお願いいたしますから」
 関羽の、青龍刀を握る手に、じわりと汗が浮いた。

「いつか、関羽様をも乗り越えられる、そう信じておりました。……愚かだったと、恥ずかしくて死にたくなります」
 は、ぽつりぽつりと語る。
「越えられないと諦めた途端、私は私の中の浅ましさに気が付きました。越えられないから、愛しくなるなんて、そんな、汚い感情です」
 男であれば、自らの力のなさに恨み妬み嫉むのだろうが、女だから力ある者が愛しくなったのではないか。そんな気持ちを激しく嫌悪したと、は告白した。
 たまらなかったと言う。
 日々、己の身の内に汚濁が渦巻き積もっていく感覚に反吐が出る思いだった。
 城に居てはどうにもならぬ、溜まった汚濁を吐き出さねば、弾けてしまいそうだった。
 酒も喚声も、その為の奇行。そんなことが助けになるわけがないと、分かっているはずだったのに。
 身を揉みしだくように懺悔するを、関羽は無言で見つめた。
 一人がそうなのではない。卑劣にも、ついでとばかりに己が鬱憤を晴らそうとしたのは、関羽も同じだった。
 そう言ってみたところで、に関羽の心意が届くこともないだろう。だが今、関羽にを取り零すことはできなかった。今しがた犯したばかりの愚行を繰り返す程、関羽は愚かではなかった。
「お前が」
 関羽は静かに、諭すように言葉を紡ぐ。
「お前が武を志したは、拙者が戦場を行く姿を目の当たりにして以来、だったな」
「……はい」
 唐突な話の切り替えに、はやや不思議そうに関羽を見返した。その目に関羽が映っている。
 と関羽の出会いは火に包まれた戦場、身内すべてを失い逃げ惑うを、関羽が助けてより始まった主従関係だった。
「ならば、武を志したよりも早く、そなたの方寸には拙者が在ったのだ」
 太い腕に抱き寄せられて、は目を見開いた。呆然とした。
「浅ましくは、ない」
 むしろ、支えだったはずだと関羽は断じた。
 自分がを支えとしたように。
 そう付け加えられ、は再び涙した。
 恋慕の情ではないだろう関羽の思いに、しかしは救われた気がした。
「……上手くは言えぬ。だが」
「いいえ、十分でございます」
 は弾かれた剣を拾い上げ、鞘に収める。
 城に戻りましょう、と涙を拭って笑みを浮かべた。
 この命果てるまでお仕えし、ご恩に報いてみせます。
 凛とした風情の背に、関羽は改めてを見た。美しい娘だったのだと、初めて気が付いた。
 呼びかけられ、関羽は誤魔化すように月を見上げる。
 月が満ちていたことにも、今ようやく気が付いた。思索から我に返るかのごとく平静に戻って、ここ数年、数十年振りに胸の奥底を見た気がする。
 苛立ちは静まり、代わりに何とも言えぬざわめきを感じていた。
「関羽様?」
 馬の轡を手に歩み寄るに、関羽は己が心情を語って聞かせたものかと悩むのだった。

  終

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