孫権は、剣を鞘から抜き取り天に掲げた。
 今日より、呉が天下を取り治めていく。
 彼の人が剣を振るうことは、もうないのだ。
 良かった。
 は安堵した。

 彼の剣の名前が、父・孫堅の愛用の剣の名を継いでいることを、は重臣の誰かから聞き及んでいた。
 どちらかと言えば虎の気質を髣髴とさせる彼が、剣に狼の銘を与えているのは、父・孫堅を偲んでのことだろう。
 彼は父の、そして兄の悲願を受け継いで、その重責を全うしてきた。
 戦は、彼とて望んで投じてきた場所ではなかったろう。
 国を、天下を治める重責は戦のそれより重いものかもしれない。だが、彼にはその方が相応しい気がした。
 外に伸びるより内を治めた方に才がある。
 皆がそう認める人だと思う。これから、天は静かに平穏な日々を迎えることだろう。

 護衛として務めを果たしたの腰に、孫権から下賜された皇狼剣が下げられている。
 持って行くものは少なくていい。
 望みは、孫権が治める豊かな天下を臨むことだった。
 期間は短かったが、その遠大な望みは果たされた。
 それに、持って行っても仕方ない。どうせすぐに役立たなくなる。
「何処へ行く気だ」
 暗がりから声がかかり、は思わず剣に指を掛けた。
「お前の愛人を、切り殺そうとてか」
 苦笑いして暗がりから姿を現したのは、誰あろう孫権だった。
 慌てて膝を付き臣下の礼を取るに、孫権は痛ましい目を向ける。
「……お前もまた、私の愛人ではないのか。お前は、自分の愛人に臣下の礼を取らせて胸が痛まないとでも?」
 己を『愛人』つまりは『愛しい人』と呼びかける孫権に、の顔は苦渋の表情をもって応える。
「孫権様は、天下を治める方。その妻となる方ならば、相応しい方が幾らも居られましょう」
 戦が続く内、ふとした弾みからに孫権の手が付いた。
 は、戦続きで血迷われたのだと思った。思い込むことで、分不相応な恋慕を押し殺してきた。
 戦は終わった。もう孫権が血迷う必要はない。
 だからは、国を捨てる覚悟で旅支度を整えていたのだ。
「お前のお陰で、私は天下を治めることが出来た」
「いいえ、私の力ではありません。すべては孫権様のお力でございます」
「お前のお陰で、私は皇帝となった」
「いいえ、私の力ではありません。すべては天下万民の望んだこと。望まれて、貴方様は皇帝におなりになったのです」
 それをすぐ傍で見られたことを、は一生の誇りに思う。
「ならば、私の命は絶対だ。行くな、。私の元に居れ」
 そうできれば、どんなにか。
 迸りそうになる激情を、は必死に飲み込んだ。
「私のすべては、孫権様のもの。ですが、その命の限りを決めるのは、天のなさることです」
 戦が終わろうとしている頃、体の異変に気が付いた。
 気安く医師に掛かると、医師は血相を変えてに病名を告げた。
 持って半年、短ければ三月。
 その三月が、もう間近い。
「新たな世の幕開けに、私の死は不吉です」
 孫権の身近な者が、孫権の天下幕開けと時を同じくして死ぬ。甘んじて不幸を受け入れやすい民は、の死に何を見るだろう?
 火を見るより明らかな問いを、うかうかと天下に発するわけにはいかない。

 孫権の声が甘く切ない。
 口付けを強請られていると知って、はそれを受け流した。
 感染るものではないとは言われていた。
 だが、死の穢れを孕む身を、尊い身に触れさせることは耐え難かった。
「どうぞ、お元気で」
 最後まで臣下の線を越えず、は天下の舞台から退場した。

 夜空に星が満ちている。
 どれが自分の星だろうと考えて、星見は得意でなかったことを思い出した。
 それでも、孫権の星はすぐ分かる。
 この空で、一番明るく尊い星だ。
 突如として体がふわりと宙を舞う感覚に襲われた。
 こんなに早く、意外に呆気ない。
 体を受け止めたのは、冷たい大地でも鋭い縁を持つ葉叢でもなかった。

 眠っても夢に見る、愛しい男の胸だった。
「私の天下は、既に父の死と兄の死を基にして成り立っている。死が不吉と言うなら、私の志こそが不吉だ」
 屁理屈だ。
 ほのかに笑うに、孫権もまた笑みを浮かべた。
「行かないでくれ」
 皇帝の厳酷な命令ではなく、愛人が心の奥底から吐き出した懇願は、容易くの心を揺らした。
 己の死期を告げられてから、初めて涙が頬を伝った。
「……愛しています」
 抱いてくれる孫権の手に、自分の手を重ねた。
「私の命が果てるまで、お傍に置いて下さいませ」
 孫権はただ一言、ああ、と大きく頷いた。

  終

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