夏侯淵が目を覚ますと、隣で眠っていたはずのが見当たらない。
 厠かと思ってその晩は流したのだが、それからしばらくして、どうもが夜中に牀を抜け出しているらしいことに気が付いた。
 嫌な考えに囚われ、口が重くなる。
 は、夏侯淵以外にも想いを寄せられていたはずだった。
 自分を選んでくれるとは思いもかけず、だからが了承してくれた時は天にも昇る心持ちだった。
 駄目元などと言ってはいたが、本当は誰よりも先に告白することで、が自分を選んでくれるのではないかと期待していた。
 優しい娘だと知っていたから、告白されたら断れないかもしれないと思ったのだ。
 小汚い策略を弄した。
 だから、夏侯淵はいつも何処か不安だった。
 いつかが他の男と逃げてしまうのではないかなどと、ありもしない妄想に駆られることがたびたびあった。
 を信じよう、という気持ちと、信じ切れない己がの隣に居ていいもんかという気持ちが相反し、夏侯淵を責めていた。
 に男が出来たとしても、自分の傍に居てくれるならいいじゃないかと自分を慰めもしたが、ある晩遂に我慢しきれなくなって、眠った振りをしてが牀を抜け出すのを待つことにした。
 曖昧にして誤魔化し続けることが出来なくなってしまったのだ。
 妄想に過ぎない、朝になったら自分の馬鹿さ加減にうんざりして、清々して仕事に打ち込めるようになるさと思っていた。
 だが、は夜更けになって、するりと牀を抜け出した。
 気付かれぬよう足音を忍ばせる自分が情けなく、愚かだと泣きたくなった。
 は、夏侯淵が武具を保管している室に入ると、隅に立てかけておいた金剛九天断の前に立つ。
 まさか、何か細工をしようというのだろうか。
 戦場で命を落とすように。
 敵国に雇われでもしたか、あるいはただ、己が生きる上で夏侯淵が邪魔だというだけのことか。
 夏侯淵が青褪めていると、見られているとも知らずには微笑んだ。
 金剛九天断の表面を撫でるようにして、ぽつぽつと呟き始める。
「……お前、お前、旦那様といつも一緒に居られて良いわね。私は戦がない時だけしか、旦那様と一緒に居られないの。けれど、お前に焼餅を焼いたりしないわ。それに、お前の周りに塵一つ落としておきはしないわ」
 だからね、旦那様を守ってあげて頂戴ね。お怪我なさらぬよう、危ない目に遭ってもお前が助けて差し上げて頂戴ね。私のところにご無事でお戻り下さるように、お願いね。
 そうしては、弓に、鎧に、兜にと、一つずつ夏侯淵のことを頼んで回った。
 全部に頼み終えると、ふ、と溜息を吐いて、振り返った。
 そこに立つ夏侯淵の姿を見出すと、さっと顔を青褪めさせる。
「だ、旦那様」
 あの、その、と言い繕おうとするを、夏侯淵はぎゅっと抱きしめた。
 の手がおずおずと夏侯淵の背に回り、突然堰を切ったように強くしがみついてきた。
 夏侯淵がの行動に不安を覚えていたように、もまた夏侯淵の影に余所余所しさを感じていたのだった。
 自分でいいのか、という不安は、互いの胸の内に病み付いていた。
 それと知って、ようやく二人の間にあった垣根が崩れ、取り除かれたような気がする。
 ああ、好きだ、愛おしいと、切なくも甘やかな感傷が満ちた。
 己の妻であり、己は夫だ。初夜の夜よりも、ずっと実感できた。
 恐らくは、もきっと。
「早く、殿に天下を取ってもらわにゃあ」
 そうして、お前の傍にずっといるからな、と夏侯淵は笑った。
 は、何度も強く頷いて、夏侯淵の首にしがみついた。

  終

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