「こんな仕打ち、あんまりでございますご主人様ー」
 悲しげに身を震わせるに、夏侯惇は返す言葉もない。
 演技だと分かっているから、返すつもりにもなれない。
 よよよ、と泣き伏すのを見下ろし、夏侯惇は投げ遣りに頭を掻いた。
 軽い。
 ずっと伸ばしていた髪を、思い切って切った。
 軽くもなろう、それは思い切った断髪振りだった。
 以前は、髪が乱れるのを嫌って香油を擦り込んで整えていた。その分の重みもなくなって、夏侯惇としては文字通り肩が軽くなっていたのだった。
 髪が乱れて、隻眼を塞ぐことも予想外になかった。武の極みを目指さんとする者に取って、視界の確保は大前提と言っていい。考えることすら馬鹿げている。
 けれど、一つきりしかないからこそ、髪が乱れて視界の妨げになるかならぬかは重要だったのだ。思い切ってみたら、杞憂だったと知れた。
 いい事尽くしに思えたが、一つだけ問題が生じる。
 これまでに髪を整えさせていたものを、髪を切ったことでその必要がなくなった。
 の仕事は、毎朝の夏侯惇の整髪だけだった。他にやれることも取り得もなかったから、そういうことにしていたのだ。
 それをうっかりしていた。
「実家に帰らせていただきます」
 よいしょ、と立ち上がるに、夏侯惇も併せて立ち上がる。
「お前、帰り方が分からんと言っていただろう!」
 は、何処か遠い国から飛ばされてきたのだと聞いていた。だから、この魏で帰る場所は何処にもない。夏侯惇の屋敷だけが、が居られる場所だった筈だ。
「分かんないけど、何とか致しますですよご主人様ー」
 非常に心許ないことを抜かして、は夏侯惇に向けて深々と頭を下げる。
 扉に向かおうとするを、夏侯惇はがっしと肩を掴んで引き止める。
「髪を切ったからとて、髪がなくなった訳ではなかろうが!」
 整髪の手間は掛からなくなったが、仕事がなくなった訳ではないと夏侯惇は言い募る。
「だって、頭軽いって、弄らなくていいって整えなくていいって、仰ってたじゃないデスかー」
 ヒドイワァ、とが泣きだす。
 頭痛がした。
 の肩を掴んだまま立ち尽くす夏侯惇に、は顔を覆っていた手を外して下から覗き込む。
 涙の跡すらない。やはり、嘘泣きだった。
「お嫁さんに、してくれる?」
「……いつ、戦地で果てるかも知れんと言っただろう」
 それでも、とは言い募る。
「惇兄の、お嫁さんになりたいんだもん」
 果てるかもしれないなら、尚のこと。
 いつか来るだろう戦の終わりを待っていることなど、にはもう出来なかった。
 戦が終わったらの約束で、夏侯惇とは約定を交わしていた。
 それまではは夏侯惇の御髪係で、ただの主と家人でいようと定めた。恋仲ではあっても、互いに触れないでいようと決めていた。
 未亡人にするかもしれないことを考えれば、夏侯惇にはうかうかとに触れることなどできよう筈もなかったのだ。
「お嫁さんに、して」
 の手が、夏侯惇の腕を掴んでいる。
 震えているのがよく分かった。
「もう、ただ待ってるの、やだ」
 夏侯惇は、の手を無慈悲に引き剥がした。
 の顔が歪む。
 その顔を、夏侯惇は両手で包んで口付けた。
「馬鹿が。……知らんぞ」
 我慢をしていたのは、俺の方だ。
 は笑って、夏侯惇の首に飛びついた。
 短くなった髪が、の指をくすぐった。

  終

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