は愕然としていた。
 目の前に立つ小喬は、最初こそ余計なお世話だの一人で何とかできただのと憎まれ口を叩いていたものの、今は照れ臭そうに笑って命を救われた礼を述べている。
 けれど、その言葉は上滑りしての耳に入ってこない。
 軍団長でもあり、兵卒から見出し拾い上げてくれたこの可愛らしい少女は、の恩人以外何物でもない。
 その恩人を、見殺しにしようとした。
 醜悪な己の感情をまざまざと見せ付けられて、の皮膚を冷たく強張らせていた。

 あと少しで、小喬は敵の手に掛かるところだった。
 寸前でが駆け付け、小喬を救ったことになっている。
 は、小喬の怪我の手当てを済ませると、迅速に戦場を駆け抜け敵総大将を見事に討ち取った。
 誰もが、この戦の勝利はのお陰だ、最大の功労者はだと褒め称えた。
 あの周瑜でさえ、の功績にわざわざ直々の賞賛を与えに出向いてくれた。
 常のであれば、面映いどころではなく天にも舞い上がるような心地だったろう。
 は、心密かに周瑜を慕っていた。
 自分の上官たる小喬の夫だということを承知していながら、気持ちが傾くのを止められずに居た。
 あんな幼い小喬では、周瑜には相応しくない。
 あんな子供っぽい小喬では、周瑜には物足りぬに違いない。
 邪心が邪心を煽り立て、いつの頃からか小喬を疎んじ始めていた。小喬さえ居なければ、周瑜は目を覚まして本当に添い遂げるべき相手(自分)に気が付く。
 そんな風に思っていた。
 逃走する敵将の討伐を命じられたが、その敵将を追っている間に小喬は伏兵に囲まれ危機に陥っていた。
 何となく嫌な予感を覚え、小喬が居るであろう地点へ向かったは、そこで伏兵に浮き足立つ味方兵と、それらを守ろうと奮起する小喬の姿を目の当たりにする。
 守られなければいけない将が、いったい何をして。
 侮蔑が沸き起こった。
 こんな脆弱な兵しか練兵できなかった小喬への侮蔑だった。
 やっぱり貴女に周瑜様は相応しくない。周瑜様を補佐し、その翼の片割れとして生きていくに相応しいのは私の方だ。私こそが、周瑜様に。
「きゃあっ!」
 はっとした。
 小喬が吹き飛ばされ、悲鳴を上げたのだ。
 ぞっとした。
 自分は何をしているのだろうと青褪めた。
 何が周瑜に相応しいものか、何が片割れか、何が、何が。
 涙が浮いた。
 自分が情けなかった。
 敵にはいい迷惑だったろう。己の醜さに気付いてしまったは、まるで八つ当たりでもするように、命を投げ出す勢いで敵兵の群れの中に飛び込んで次から次へと打ち倒していった。
 それを見ていた甘寧は、飢えた虎が生き餌に襲い掛かるようだったと揶揄したそうだ。
 の猛々しさは見る者の目を鮮やかに奪い、敵に恐れを、味方に士気の昂揚を与えた。
 見事の一言だとは周瑜の言だ。
 嬉しくなかった。
 小喬を見殺しにしようとした汚さが、を決して許そうとはしなかった。
 もう、ここには居られない。
 祝宴の最中、はそっと陣を抜け出した。

「何処、行くの?」
 無邪気な声がを見咎めた。
 恐怖した。足が震えた。
「ねぇ、何処に行くの?」
 小喬だった。
「いえ……あの……」
 言い訳しようにも、頭の中は真っ白に染まっていた。
 舌の根が引き攣って、空言を綴ることも出来なかった。
 が持ち出したのはわずかな荷物だ。傍から見れば、出奔するようには見えはすまい。
 誤魔化そうと思えば出来る。けれど、出来なかった。
 もう、誤魔化せなかった。
「私……私、もうここには居られません……居る資格が、ないのです」
「どうして?」
 は、眩暈に見舞われた。
 醜悪な己の姿を告白することを迫られ、嘔吐感を覚える。
 許して下さい、そんな自分を知られたら、もう、生きて行けない。
 でなければ、とは真っ黒な絶望の中に小さな希望の光を見出した。
 でなければ、生きていけないのなら、いっそ死んでしまえばいいのか。
 希望の光は青み掛かった冷たい色をしていた。けれど、それでも光には違いない。
 には、その光が己の身を焦がす炎のようにも思えた。
 魅惑的で、身を投じずには居られない。
 がたがたと震えだしたの手を、小喬は強く握り締めた。
「駄目だよ」
 凛とした声が、の妄想を掻き消してしまう。
 小喬はを見もせず、けれど手を強く引き歩き出す。
 自軍に向けて。呉の、陣地に向けて。
「だって、あなたはあたしを助けてくれたんだよ……ちゃんと、助けてくれたじゃない」
 知って、いたのか。
 は、全身から力が抜けていくのを感じた。
 覚束なくなった足取りを、小喬が支え導いていく。
 小喬が何処まで知っているのか、覚っているのかは定かではない。
 だが、確実に言えるのは、小喬はの罪を知り、許し、その上で今も尚を必要としてくれているということだった。
 の頬を涙が伝った。
 泣きじゃくるを、小喬は無言で、だが力強く引っ張っていく。
 その手は暖かく、しっかりとの手を捉えて離そうとはしなかった。

  終

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