船は岸辺から離れ、ゆっくりと下っていく。
 事実上の離縁だった。
 尚香は物憂げに水面を見詰め、はそんな主を物憂げに見詰めている。
 孫権様も、惨いことをなさる。
 の胸の内に、呉の若き君主への恨み言が湧く。
 よもや尚香と劉備が本気で愛し合うことになるとは、孫権にとっても予想外だったに違いない。年が離れていたし、お転婆な尚香と穏やかな劉備では、到底お似合いとは言い難かった。
 だが、どちらも燃える炎のような魂を隠し持つ二人である。
 炎と炎が重なり合えば、身を一つにして尚燃え盛るのが道理であった。
 それを見逃していたのは、孫権自身の罪と言ってさえ良い。
 残ったらどうかと薦めたこともある。
 あまりに泣きじゃくる尚香を見かねての提案だった。
 結果、死を賜ることになろうと、死ぬまで好きな男の許に居られるのならそれはそれで良いかもしれないと思ったのだ。
 一人で死ぬのが嫌なら、が一緒に死んでも良い。
 否、尚香が命じてくれるなら、喜んで供をさせていただこうと覚悟していた。
 けれど、尚香は死を選ばなかった。
 実を言えば、今回の尚香の決断は、に取って意外なものだった。
 尚香の気質から言って、が薦めなくとも自ら残ると決断しそうな気がしていたからだ。
 深く愛し合っていた割には、が拍子抜けするほど簡素な決別だった。
 とかく、男を知らぬには夫婦のことなど分からない。
「本当のことを、言うわね」
 深い思考から立ち返る。
 ぽつりと呟かれた声は、震えていた。
 泣いているのかと思ったが、そうではなかった。
 ただ、今にも泣き出しそうな顔をしているとは思った。
「私が死んで、貴女が玄徳様に抱かれるのが、嫌だったのよ」
 雷に打たれたような衝撃が走った。
 何で、どうしてそんな話になってしまうのか。にはまったく理解し得なかった。
「知らなかった? 玄徳様、貴女をずっと見ていたのよ」
 自嘲じみた笑みは、弓腰姫には似つかわしくない卑屈さを滲ませていた。
「は……」
 言葉が出ない。
 どうしたらいいのだろうかと困惑した。
 性質の悪い冗談を言っているのかとも思ったが、どうもそうではない。尚香は、頭から信じ込んでいるようだった。
 心無い者から讒言でも吹き込まれたかと疑う。
 同じ女とは言え、武に生きると尚香の周りに姦しく控える侍女とでは、まるで作りが違っているように感じられていた。
「最初はね、私も、何て嫉妬深いんだろう、私は何て嫌な女だろうって自分を責めたわ。でも、どうしても吹っ切れなかった。喉に小骨が刺さったみたいに、どうしても疑いを捨てられなかったの」
 色白の尚香の肌は、血の気が引いて透き通るようだ。
 激しい葛藤に責められているのだろうことが、良く分かる。
 それでも、には尚香の思い込みだろうとしか考えられなかった。
 不信げな表情を見て取ったか、尚香の口元は歪な笑みを浮かべる。
「呉に戻ろうって決めた夜、玄徳様が私の室にいらっしゃって、こう仰ったの。『を、私の元に残してくれぬか』って……私、訊いたわ。どうなさるおつもりですかって。そうしたら」
 尚香の唇がわなわなと震えた。
「……私の、代わりにしたいって……、貴女を、私の代わりに迎えたいって……!」
 それは違います。
 言いたかったが、言葉には出来なかった。
 劉備について、が知り得たことが一つある。
 独占欲が強いのだ。
 普段のことはさておいて、一度自分のものと思えば異様な固執を見せる。
 英雄としてこの乱世を駆けるには必要不可欠な素質だったかもしれないが、にはその固執振りが恐ろしかった。
 だからこそ、尚香をあっさり手放した劉備に拍子抜けしたのだ。
 尚香を守る、そのことがの支えだった。
 もしも劉備が無理強いして尚香を引き留めようとするのなら、自分が楯となって尚香を逃そうとさえ思っていた。
 それぐらい劉備は尚香を愛していたし、その分を厭っても居た。
 劉備がを娶る筈がないのだ。
 そして、が劉備の許へ嫁ぐ筈がない。
 の胸の内にある人は、生涯告白を許されぬ、しかし魂賭けてお守りすると誓った人だった。
「尚香様」
 が縋るように声がけるのを、まるで振り払うようにして尚香は船室へと駆け込んで行った。

 劉備に対するの見立ては、ある意味正しかった。
 手放さざるを得ない花が、生涯他の虫に食われることがないよう手を打っていたのだから。
 決して言うまい、悟られまいと決意している者にさえ、その手に落ちることがないよう策を講じた。
 今後、尚香はを疎んじ、側に寄せ付けぬようにすることだろう。
「……劉備……!」
 凄まじい怒りがを焼き、責めていた。
 いつかお前を八つ裂きにしてやる。
 復讐を決意したの頬は、その虚しさを知ってか知らずか涙に濡れていた。

  終

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