+++初恋は実らない、ジンクスさえも憎い
この世界に来るまで、恋なんてしたことがなかった。
学校の男の子は子供っぽくて、テレビに出てくるアイドルは嘘臭くて、全然好きになれなかった。
世界が狭いからかな、なんて都合よく解釈してみたけれど、大学を出て会社に入ってみても、状況はまったく変わらなかった。
男の人は皆、子供っぽくて、我がままで、自己中の甘ったればっかりだった。
自分が悪いと分かっていても、逆ギレしてみせたり変に拗ねたりするような鼻に付くような奴だらけで、それこそ老いも若きも大して変わらないのだと知った。
何より、彼らは美しくないのだ。
皮膚の美醜の問題ではない。
打ち込んでいない。
それこそ、稼ぐ為の仕事でさえ放棄してしまっているような、必死とか懸命とかいう単語とは真逆を行くゆったりさが嫌で嫌でしょうがなかった。
一生懸命やってもやらなくても、入る給金に変わりないと嘯かれた時には、思わず金切り声を上げそうになった。
生き辛い時代だとニュースのコメンテーターが抜かしていたが、口の中に自動的に餌が放り込まれる状態でないのが生き辛いと言うなら確かに行き辛かったろう。
皆が皆そうではないと信じたいところだが、少なくとも私の入った会社はそんな感じだった。
就職難にも関わらず職にありつけたということで、辞める勇気も持てなかった私は胃をきりきり痛めながら会社に通い続けた。
この世界に来たのは、事故に巻き込まれてのことだった。
事故と言っても、規模はほんの小規模だ。
何せ、被害にあったのは私だけだったから。
社員旅行(未だこんなものをやる会社だったのだ)の最中、酔ってふざけた上司と同僚の女子社員が、ツーショット写真を撮るのだと言って私の居た高台の狭い展望台に駆け上ってきた。
私は偶々、腰を折った不安定な姿勢で下を覗き込んでいた為に、彼らを避け切れなかった。
最悪だったのは、酔っ払っているのに急に走ったものだから、足がもつれて私を突き飛ばす形で転んでくれたことだった。
二、三十メートル程の高さがあっただろうか。
下から吹き上げてくる突風の冷たさに、私は意識を失った。
飛ばされたのは、この蜀だった。
歴史はからきしだった私は、ここがどんなところだかさっぱり分からない。
でも、ここが相当昔なんだということは、電気もガスもない設備と厳しい古風な装束を身に纏った彼らを見て分かった。
雰囲気から、中国なのかなとも思うのだが、イマイチピンと来ない。
男に興味がなかった分、もう少し勉学に勤しんでおけば良かったかもしれない。
私の得意科目は数学だったせいか、頑張ったのは主に理系科目ばかりだった。
正直、私なんかよりここの世界の人の方が全然頭がいい。
電卓などなくても彼らはほぼ一瞬で複雑な計算をしてしまう。しかも、大体は暗算で済ましてしまうのだ。
日々を勤労に過ごす彼らは、それこそ鍬を振るっているただのおじさんでもカッコ良く見えた。
私は、初めて男の人を素敵だと思った。
そんな素敵な人達に嫌われたくなくて、私は私に出来ることはないか懸命に探した。
変な衣装で迷い込み、殿……劉備様に保護された私は、ちょっとしたお姫様扱いだった。
けれど、私はお姫様なんかじゃなかったし、大事にされるいわれも何もなかったので、とにかく何か恩返しと言うか、私でも出来ることがあるのだと証明したかったのだ。
認められたかったのかもしれない。
日々をしゃかりきに過ごす私は、この世界でも変わり者扱いされた。
じっとしていてもいいと保障されてるのに、わざわざ働こうとするなんておかしいということらしい。
そんな揶揄の言葉を私が気にしなかったのは、そう言って笑う彼らの目の中に、歓迎の色を見て取ったからだと思う。
会社勤めの頃は、一生懸命働いているのが目障りだと言わんばかりで、そんなにこれ見よがしにやられると、自分達が働いてないように見られる(本当に働いていないにも関わらずだ)等と苦言をいただいたことすらある。
一時間でやれる計算式を、一日掛けてやるような無能はここには居ない。
危うく殺されるところだったが、今となっては感謝さえしても良かった。
私は記録の保管係のお手伝いの地位を手に入れ、年相応に一番の『無能』として充実した生活を手に入れた。
生活が充実すると心に余裕が出てくるのか、私はこの年にして生まれて初めて人を好きになった。
相手としては高望みにも程があったが、五虎将軍の内の一人、趙雲殿(こんな呼び方は、私にしてみれば古風で照れ臭い。が、皆がそう呼び合っているので仕方なかろう)だ。
誠実な職務振り、丞相たる諸葛亮様からの信任も厚く、私でさえ好きになってしまうような、否、私なんかが好きになるのは申し訳ないような『素敵』な人だった。
物陰から、廊下の端から、時折顔を見られるだけで良かった。
こんな少女漫画めいたことを自分がすることになるとは、夢にも思わない。
でも、私はこういうことにあまりに不慣れで、それ以上はどうしたらいいか分からなかった。
変なことをして嫌われるよりは(嫌うことに関しては人より相当長けていた私だったから余計に)、気付かれないようにこっそり見ている方が良かった。
実際、彼の顔を見ただけで、その日一日はとても幸せな気分になれた。
雨だろうが雷だろうが、趙雲殿の顔を見られた日は『いい日』なのだ。
とても幸せだった。
曇り空の肌寒い日だった。
天気のせいか、人気のない庭を近道と称して横切っていた時だった。
向こう側から趙雲殿が歩いてくるのに気が付いて、私は少し焦った。
物陰から見ている分には幸せで済む話なのだが、それ故に直接面と向かって対峙したことはなく、すれ違ったことさえ実はない。
そんな状態でよく恋したなんて思えるなぁと、我ながらいたく感心するのだが、趙雲殿を見て感じる動悸が恋のせいではないとしたら、私は新種の病気かなんかだろう。
ともかく、内心うろたえながらも『すれ違うだけだから』と自分に言い聞かせ、歩みを進める。
趙雲殿にぶつからないよう進路をずらしたつもりが、俯いた額に直撃した固い感触に自分が失敗したことを知る。
幸い持っていた竹簡は落とさなかったが、勢いよく突っ込んだ額にたんこぶの被害が出た。
この分では趙雲殿もさぞ痛い思いをしたのではないか。
ようやく思い当たり、慌てて頭を下げた。
「ごっ……じゃなかった、す、申し訳ありませんでした、将軍」
「否。まさか、突っ込んでこられるとは思わなかったもので、失礼した」
おかしな違和感を感じ、来た道を振り返る。
庭木を持って道幅の標としてあって、私はちょうど反対側を歩いていた。
趙雲殿を避けようとこちら側に避けて歩いたのだから、趙雲殿がわざとずれたのでない限り、私と衝突する筈がない。そんな細い道ではないのだ。
どういうことかと顔を上げると、趙雲殿は困ったような顔をして私を見ていた。
「殿」
「は、はい」
名前を呼ばれてしまった。
好きな人に名前を呼ばれるというのは、こんなに気恥ずかしいものなのか。
新鮮な感動を覚えていると、趙雲殿の表情が苦くなる。
「最近、私のことを見ておられるようだが」
「え」
やばい。気付かれていたのか。
妙に落ち着かない気持ちになって、私はおどおどと周囲を見回した。
人が居ないと分かって、何故か更に落ち着けなくなる。
居たら居たで落ち着かなくなったろうが、どうにも量りがたい感情だ。
「何故だろうか」
「え……それは、あの……」
口篭った私に、趙雲殿は小さく溜息を吐いた。
心臓がみしりと嫌な音を立てる。
やばい。
「申し訳ないが、迷惑だ。噂にもなっているようだし……もし理由もなく見ておられるなら、やめていただけまいか」
「あ……はい……」
私はただ了承した。
「……申し訳、ありませんでした……」
私が頭を下げると、趙雲殿は未だ何か言いたそうな顔をしていたが、黙って道を開けてくれた。
私は、そのまま竹簡を抱えて歩いた。
まっすぐ、振り返ることもなく、ただ歩いた。
私の初恋は、こんな調子で終わってしまった。
初恋が実らないなんて、よくある話じゃないか、と自分を励ましてみたりもした。
けれど、駄目だった。
うっかりすると趙雲殿のことを思い出し、迷惑だと告げられた言葉を思い出し、いつの間にか滲んでいる涙を拭った。
――初恋は実らない、ジンクスさえも憎い。
胸がじくじくと痛んだ。
恋が出来ると分かっただけいいじゃないか、などと、空元気を出す元気がない。
自分がこんな風にダメージを負うことすら、想定外だった。
見ているだけでいい、見ているだけで十分だと思っていたのに、それさえ迷惑になるとはまさかに思いも寄らなかった。
ストーカーみたいに後を付け回した訳ではない。
偶然通り掛かった時に、彼を見つけて喜んでいたに過ぎない。
それさえ駄目なのか。
ならば、恋なんてどうしたらいいのだろう。
お昼休みになったが、食欲がなくて食事を断って外に出た。
会社に勤めていた時は、こんな時の居場所にとても困ったものだが、ここは違う。
何処にでも緑があって、何処ででも休める。
今日は暖かで、花が春の日差しに蕾も緩んで花開いている。
誰もが心浮き立つような日だったが、私は静かに落ち着ける場所を求めて、裏庭の小さな一角に向かった。
そこに、細いが桜の木が植えられているのを覚えていたのだ。
日陰に隠れてしまうような場所だし、どうも自生のものらしく人手が入っている形跡はない。
けれど、気温が高めの今日なら花が咲いているかもしれないと思った。
行ってみると、予想通り桜は花開いていた。
予想と違っていたのは、想定していた暖かなピンク色ではなく、純白に近い白い花弁が揺れていたことだった。
その清冽な白は、どうしてか趙雲殿を思い出させてしまう。
やめよう。
折角咲いていてくれたけれど、この場所は私には居辛い場所だ。
踵を返した私の前に、見慣れた色彩が飛び込んでくる。
泣きたくなった。
「殿」
名前を呼ばれてしまった。
好きな人に名前を呼ばれたというのに、ますます泣きたくなってしまった。
失恋してしまったからだろうか。
失恋と言うが、この言葉は正しくないと思う。失ったらなくなる筈なのに、失恋した私の胸の中は、じくじくとした痛みで一杯になっている。
痛みの元は、恋だったものなのだと思う。
だったら、『破恋』とでも言ったらどうだろうか。破れたものなら残っていても妥当だし、破れたから痛いのだとすれば、説明も付くだろう。
馬鹿なことを考えているとは分かっているが、馬鹿なことでも考えないと立っても居られなくなる。
握り締めた拳が震えているのが分かった。
私は無言で趙雲殿を避けて、この場を立ち去ろうとした。
趙雲殿にぶつからないよう進路をずらしたつもりが、俯いた額に直撃した固い感触に自分が失敗したことを知る。
涙が滲んだのは、たんこぶのせいだと思うことにした。
私は無言でまた趙雲殿を避けようとするのだが、趙雲殿は腕を踏み切りの遮断棒のように広げて通せんぼする。
遊んででもいるつもりなのかと悔しくなって、それ以上に悲しくなって、私は堪えていた涙を止めることが出来なくなってしまった。
趙雲殿の手が止まり、私はその隙に逃げ出そうとして、逆に捕まってしまった。
泣いているのを見られたくなくて顔を伏せる私に、趙雲殿は酷く複雑そうな、怒ったような声で話し始めた。
「……噂に、なっている」
それはこの前聞いた。
「貴女が私を見ていると言うのは、この前までの話。今は、私が貴女を振ったと、そんな噂が流れている」
「……そう、ですか……」
また、迷惑だと言うのだろうか。
なるべく人前では普通にしていたつもりだが、食事を断ったりしているから見え見えと言えば見え見えかもしれない。
「……気を付けます……」
話がそれだけならと頭を下げ、肩を押さえる手を袖越しに払った。
布越しでも趙雲殿の手の感触が伝わって、胸が痛くなる。
恋は偉大だという人が居るが、大きな影響力があるのは間違いないと実感していた。
この胸の痛みは、いつになったら消えてくれるのだろう。
と、その胸を、がばっと押さえるものがあった。
払ったばかりの趙雲殿の手だと分かるまで、数瞬を要する。
胸を鷲掴みにされていることもこの際問題ではなく、ただ驚嘆して声が出ない。
「そうではなく! ……そうではなくて、ああ、面倒なひとだな、貴女は」
ぐっと引き寄せられて、私は趙雲殿の腕の中に閉じ込められた。
たんこぶに触れる温かくて柔らかな感触が何なのかは、しばらく分からないで居た。
混乱していた。
「理由もなく、と言ったではないか。理由があるのなら……見ていてもまったく構わぬのだと、どうして受け取ってくれないのだ」
「え……」
まだぼんやりしている私に、趙雲殿はとても渋い顔をした。苦虫を噛み潰したような顔とでも言えばいいだろうか。
「……私が、好きなのか」
「は」
趙雲殿は、半ばやけくそのように吼えた。
「貴女は、私が好きなのか! 好きで、だからあんなに見ておられたのかとお訊ねしている!」
趙雲殿の言葉を噛み砕くのに、しばらく時間が掛かる。
「……え?」
「……だから」
うんざりとしたような態で、趙雲殿は深々と溜息を吐いた。
「貴女が、もし私を好きであると言うのなら……否、そうではないな。そこに拘るから、こんな阿呆なことを問わねばならないのだ」
一人言を繰り返す趙雲殿に、私はあらぬ期待に膨らむ胸を取り押さえようと必死だった。
勘違いしたら、また悲しい思いをする羽目になる。
この期及んでも、それだけは嫌だった。
「」
「は、はい」
名前を呼ばれてしまった。
しかも、呼び捨てで。
「私は、貴女が好きだ。貴女は、私をどう思っておられるのだろうか」
心臓が爆発しそうだった。
そのまま滝のような涙を流すに、趙雲がぎょっとして顔を引き攣らせる。
全身肝と謳われた男を焦らせた偉業に、は気付かなかった。
趙雲の言葉が分かり辛かったのは確かに否めないが、趙雲とての露骨な視線に気付いた者らに囃されて、噂に踊らされるまいと敢えて己を律した結果であるから、一概には責められない。
趙雲は、『どうして自分を見ているか』確かめたかっただけなのだ。
問い掛けても返事がもらえず、焦って要らぬ口を叩いたとしても仕方がないとも言えたかもしれない。趙雲ならずとも『己が好きか』等と問い掛けるのは、大言壮語も甚だしい、極めて増長した問い掛けに他ならない。
言うべき時であったにも関わらず、口を噤んだのはの責任でもある。
初恋だから実らないなどと、ジンクスのせいにしていては駄目なのだ。
もしジンクスが有効なのだと証すなら、それは不慣れから生じるすれ違いが最たる要因になるからだろう。
ともあれ、今二人の目の前には『告白の返事をする』『告白の返事をもらう』というそれぞれの難題が立ち塞がっている。
乗り越えるには、今少しの勇気と余裕が必要だった。
終