+++触れられなかったキスの味を、僕は生涯忘れない
落鳳破と言う地名を聞き及び、龐統は怯んだ。
龐統に拾われて以来ずっと護衛を勤めてきたの動揺は、それ以上に激しかった。
誰が付けたのだか知らないが、何という名を付けるのだ。
心密かに慕い続けてきた龐統が、こんな辺鄙な(住んでいる者には悪いと思うが)ところで『落ち』てたまるものかと思った。
「龐統様、大丈夫です。ボクがちゃあんと、お守りして差し上げますからね!」
は愛剣を掲げ、龐統に誓いを立てる。
幼いながら真剣な表情に、龐統は優しげに目元を緩ませた。
「……ああ、信用してるよ。お前さんに任せたからね」
途端、ぱっと顔が綻ぶの気持ちは、龐統軍のみならず蜀軍の中では相当有名な話だった。
そのたび、龐統がやや渋い表情を浮かべるのも、皆知っている。
龐統は、己の姿形の醜さを厭っている。
それこそ、己を好いているごと厭ってしまいそうな程だ。
に対する時、龐統の態度はいつも以上に頑なになる。
これは部下に対しての好感であると、下手に期待させぬようにと心を砕き、肩肘に要らぬ力が入るのだ。
自身も、何となくでもそのことに気が付いている。
けれど、龐統がを手元から離そうとしたことはない。
真意は分からない。
己の私情でみだりに兵を動かすことを戒めているのかもしれないし、少しは(そう少しは)のことを気に掛けて傍に置いておきたいと思ってくれているのかもしれない。
敢えて言及せずに居る。
知ってしまえば辛くなってしまうかもしれない。
浮かれて調子に乗ってしまうかもしれない。
どちらにしても、龐統に迷惑が掛かる。それだけは嫌だった。
ならば、想像に任せているのが幸せだと思った。
夢を見ることが許されるなら、それでいい。
馬上の龐統と、その少し斜め前を歩くの距離は、近くて遠く、そして均等だった。
突然。
風を割いて飛来した矢が、龐統の肩口に刺さった。
の目が大きく見開かれる。
時が止まったかのような、冷たい感覚に落ちた。
止まるならば完全に止まって欲しいのに、滴る水滴が自らの重みに耐えかね落ちるような鈍さで進んでいく。
龐統様。
馬から投げ出されてしまうと思った瞬間、背後からけたたましくがなり立てる騒音がの足を止めてしまった。
「お」
こいつらだ、と直感した。
こいつらが、龐統様を。
「……お、前、らぁっ!!」
一軍の怒声に負けず、は吼えた。
怒りが、その小さな体を破裂させようと暴れまわっていた。
優しい、そして厳しい、誰より寂しい人なのに。
これから報われるべき人なのに。
大事で大切な、愛おしい人なのに。
龐統という制御を失い、は己が命を守るという単純な防衛本能すらかなぐり捨て、敵軍へと躍り掛かった。
自分以外、立っている者は一人とて居ない。
は、血走った目を周囲に向け、やるせない確認を取った。
弓矢の一斉射撃を受け、避けられる者は少なかった。
運良く助かった者も、怯んだ隙を狙われて命を落としてしまったか、命からがら逃げ出してしまっていた。
代わりに、敵軍も皆屠った。
将兵の区別無く、一人も逃さずすべて屠った。
けれど、虚しい。
「……ぅ、え……」
涙がひっきりなしに溢れた。
矢の刺さった足を引き摺り、龐統の姿を探す。
弓に驚いてか、馬は何処かへ逃げてしまっていた。
龐統は静かに、眠るように横たわっている。
「……龐統様……龐統様……ボク……私……」
龐統が少しでもに女の『臭み』を感じないよう、は自分を『ボク』と言い表すようになっていた。
それぐらいのこと、はどちらでも良かった。
龐統が居てくれさえしたら、どちらでも良かったのだ。
本当にどちらでも良くなってしまった。龐統が居なくなっては、何の意味もない。
は龐統の遺骸の傍らに膝を着くと、そっと唇を寄せる。
涙が溢れて止まらないまま、叶わなかった、叶えようとも思わなかった想いを行動に示した。
「……あいたたた」
唐突に龐統が呻き声を上げ、は驚きの余り背後に引っくり返る。
傷が鋭く痛んだが、構ってられない。
慌てて飛び起きると、龐統もむっくりと起き上がったところだった。
「やぁ、参った参った。こいつぁ、油断したねぇ」
刺さったままの矢を押さえながら、龐統は顔を顰める。
「ほっ……龐統、様……?」
「面目ないねぇ。どうやら、落馬の衝撃で、気ぃ失っちまってたみたいだね……こいつぁ、お前さんがやったのかい?」
辺り一面の惨状を、龐統は空恐ろしげに見回している。
無性に恥ずかしくなって、声が出ない。
こくりと頷くに留めた。
「そうかい……難儀させちまったね」
龐統の労わりの言葉に、一度は止まった涙腺が緩む。
「すまなかったねぇ、てっきり、あっしが死んじまったと思ったんだろ?」
最初に首を横に振り、次いで首を縦に振る。
生きてさえくれていれば、何もかも何と言うこともない。
は遮二無二目を擦り、涙を堰き止めた。
「うっ、馬、馬探してきますっ!」
「いいよ。お前さんも、怪我してるじゃないか」
「でも」
駆け出そうとするを押し留め、龐統は、味方が来るまでちょっと休憩さと言いながら森の中へと分け入っていく。
慌てて追い掛けながら、は、そっと唇を押さえた。
――触れられなかった口付けの味を、ボクは生涯忘れない。
やっぱり、ボクは龐統様が好き。
押さえておかねばならない気持ちが、いつか戒めを破って溢れ出してしまいそうで、はその日を恐れながら、しかしどうしても消え去らない想いを再度確認した。
終