+++愛の言葉なんてひとつもなかった
「名族が、このようなところで…」
弱音とも取れる本音が、ちらりと零れる。
ふっと袁紹に視線を向けたは、躍り掛かってきた兵士を視線も合わさぬままに地面へ叩きのめした。
一人が獅子奮迅の活躍を見せているものの、袁紹の手下は一人また一人とじわじわとその数を減らしていく。
関羽とかいう将に顔良も文醜も討ち取られてしまった。その訃報が軍の全体の勢いを殺いでいるのだ。
急報を受けたは一人袁紹の下を飛び出し、どうにかこうにか討ち倒したものの捕縛には至らず取り逃がしてしまった。手負いの将相手と言えど、その跨る名馬・赤兎馬の脚力には敵わなかったのだ。
これでは軍の勢いは取り戻せぬと歯噛みするは、怖気を感じて何気無く空を見上げた。
目の端に映った明るい光。
烏巣の方向だった。
血の気が引いた。
烏巣の守りは万全だった筈だ。裏手の崖から急襲でもされ浮き足立ったか……否、恐らくは袁紹が進言を無視して烏巣を開いたのだろうと察しが付いた。
今更何を言っても始まらない。
は馬に跨ると、急ぎ袁紹の元へと駆け出した。
けれど、すべては手遅れだった。
烏巣が焼け落ち、烏巣を守っていた筈の淳于瓊も死に、更に噂は軍全体に広まり動揺を誘う。
張郃や甄姫が投降したと喚き散らす兵が、崩れかかった大軍を一気に瓦解へと導いていった。
袁紹は、下郎め、悪女めと歯噛みしていたが、こうなってしまえば悔し紛れの戯言にしても程度が低い。
立て直そうにも軍勢が無駄に大き過ぎた。
将と言う手足のほとんどを失った袁紹軍は、今や無様に死への横転を繰り返すばかりの有様だ。
も、実力こそあれ軍を立て直す程の名声と権力がない。せめて将としての立場であったら、もう少し話は違っていたかもしれない。
君主直属とは言いながら、は未だに卒白止まりだった。
女の身でと、袁紹がの出世を厭ったからだ。
甄姫が将として戦場に立つのは、単に袁煕の妻だからに他ならない。実力で言うのであれば、の方が格段に上だ。
皆、分かっていた筈だ。
分かって、敢えて無視していた。
それは、への嫉妬かもしれないし、反感かもしれない。
けれど、露骨な程の差別を受けているというのに、何故かが不服を述べたことはなかった。
実生活での扱いが良かった訳では決してない。
例えば、に袁紹の手が付いたことがある。
酔った勢いだったろう、宴の席で女の癖にとさんざ詰られた後、薄暗い庭の一角に連れ出されて犯された。
灯りの元に居る者達には見えなかったろうが、面白がられて囃し立てられながらの交合だった。
破瓜の痛みに涙しながら、それでもが歯向かうことはなかった。
父親から厳しく言い含められていたこともある。
お前のような下賎の身で袁紹様の元で働ける栄誉を喜ばねばならぬ、と、何度も何度も吹き込まれた。
は、間違いで出来た子だった。
父親が、やはり酔った弾みで手を付けた、下働きの女の生んだ子だった。
母が亡くなり、糊口をしのぐ為やむなく兵に志願した。父の家では養うつもりはないとすげなくされ、恩を着せられ紹介されたのが兵士の口だったという次第だ。
天賦の才か、武人として名を上げ始めた頃から、『自分には分かっていた』と自慢げに説教垂れる父親が会いに来るようになった。
そんな父と袁紹は、何処か似ているとは思っていた。
高慢で鼻持ちならないくせに、何処か小心で悪くなり切れない、見るからに小物然としているところが似ている。
父も、初めてを尋ねて兵舎に来た時は、おどおどして上目遣いにの様子を伺ったものだ。
破瓜の夜が明け、常の通り出仕したに、袁紹はおどおどしながら『昨夜は、幾らか酒が過ぎた』等と言い訳しだした。
どう答えたものか悩んで、『お加減は如何ですか』と訊ね返すと、袁紹は大きく胸を張り、『あれしきの酒で私がどうにかなると思ってか』とからからと笑う。
どうも、が体調を訊ねたことで許してくれたものと勘違いしたらしい。
こちらが許すも許さないも、結局は袁紹の胸三寸でのみ決まることなのだ。
「、醜い抵抗はお止めなさい」
眼前に張郃が立っていた。
「今なら、私の口利きで貴方を魏軍に迎え入れましょう。今よりもっと貴女に相応しい、美しい待遇が受けられる筈です。さぁ、おいでなさい!」
滑らかな良く回る舌で、を甘く勧誘する。
傍に居た袁紹の顔が、さっと青褪めた。
一矢報いる、という言葉が、の脳裏に浮かび上がった。
戦場を駆けずり回って、体は疲れ切り疲労の極みにあった。
これ以上戦えば、呆気なく討ち取られるのは目に見えている。
は袁紹を振り返る。
「ばっ、馬鹿な」
剣を握り直すに、袁紹の目が恐怖に見開かれる。
「袁紹様」
すっと翻る剣は、闇の中であってさえも尚も美しく輝く。
張郃ですら誉めそやしたの武技を、袁紹が認めたことなど一度たりとてなかった。
「お先に」
の足が舞を舞うように踏み出す。
切っ先は、張郃に向かって一直線に伸びた。
張郃は無言での剣を弾き、全力の一撃でを屠った。
はそれきり、糸が崩れるように倒れ、ぴくりとも動かなくなった。
「馬鹿な子、ですね」
張郃は短く呟き、袁紹へと向き直る。
「や、止めよ張郃! 名族を何と心得居るか!」
「尊い方、貴方の忠実な従者は先に行きました。急ぎ追わねば、黄泉の行方に迷いましょう」
軽く掲げた爪に炎の輝きが艶めいていた。
が父も、だから袁紹も嫌えなかったのは、死の際になってからもどうしてなのか分からなかった。
――愛の言葉なんてひとつもなかった。
けれど、とても愛していたと思う。
終