+++なんて無謀な恋をする人

 灼熱の大地、と言っても砂漠ではない。
 緑は濃く豊かな土地だ。
 けれど、暑いという点では決して砂漠に引けを取らない。
 過度に熱された湿気は、まるで柔らかな薄絹のように呼吸の自由を妨げる。
 この地で生まれ育った者はともかく、中原からやってきたには辛い土地柄だ。
 は、蜀の使者としてここに居る。
 女の身ではあるが、あの月英の副官を努めたこともあり、文武両道に秀でし者と諸葛亮に大抜擢されてここに居る。
 正直、光栄だとは思いつつ気が重かった。
 南蛮平定に同行した折も、このうだるような暑さに体を蝕まれるような気がしたものだ。
 生まれ付きどうも暑いのが苦手だ。それに、この土地の者はどうも野蛮で、呑気で大雑把で、直情に過ぎる。おまけにイヤらしい。
 暑さ対策にと薄着も用意しておいたのだが、の肌が白いと言って囃したてられて以来、暑くてもきっちり着込み続けている。
 お陰で、暑さに加えて汗疹と苛立ちから来る胃痛にも耐えなければならなくなった。
 生来の負けず嫌いの性分から、抜擢された身の上で期待に応えられない怠け者と思われるのが癪で体調を押して限界まで頑張ったのが仇となり、今は病床に臥せっている。
 現地の医者(祈祷師にしか見えなかったが)の見立てでは、悪い病ではないから、美味い物をたらふく食べればすぐに良くなろうと言うことだった。
 しかし、食べること自体が相当堪える。
 細くなった食を押して食べれば、戻してしまって却って体調を悪化させるという悪循環だった。
 そんな折、大王孟獲自ら見舞いに来るという行幸を賜った。
 帰順したとは言え、孟獲は正式に蜀に属した訳ではない。立場としては友好国の王であり、従ってからすれば雲上人と言っても過言ではなかった。
 急ぎ牀から這い出ようとするのを押し止められ、気さくに具合を訊ねられる。
「その……」
 良くないというのは気が引けた。
 口篭るに、孟獲は辺りをきょろきょろと見回した。
「中原が恋しいのは分かるが、こんな室の作りじゃぁ風が通らねぇぞ」
 孟獲の言う通り、の室は中原のそれと良く似通っている。家人が『使いやすいように』と苦心してくれたものであって、だからが文句を言えた義理でもない。むしろ、内心では少しでも南蛮に居る気煩わしさから逃れられる安息の場として、大層有難かった。
 だが、大王は室の内装一つ一つを細かに点検し始めた。
「駄目だな、こりゃあ」
 室の主たるを余所に勝手に駄目出しすると、傍に控えていた兵士に何やら指示を出し始めた。
 話を聞き終えた兵士は室を飛び出し、孟獲は一人取り残されていたを矢庭に担ぎ上げる。
「だ、大王様!?」
「埃が立つのは、病にゃ悪いからなぁ」
 分かったような分からないようなことを言いながら、どすどすと室を後にする。
 何でもいいが、寝巻きのままなのは勘弁して欲しかった。
 だから無神経と言うのだ。
 内心悪態を吐きながら、それでも身分を慮って口を噤んでいた。

 孟獲は、を担ぎ上げたままするすると森を抜けていく。
 むせ返るような緑の隙間から、強い光が差し込んでいた。
 けたたましい鳥の声、得体の知れない獣の鳴き声が、の神経をささくれ立たせる。
 滲む汗から精気が迸るような感覚に苛まれ、は次第にぐったりしていった。
 さぁっ。
 涼やかな風が吹き渡る。
 はっと我に返ると同時に、それまで視界を覆っていた緑が掻き消え、抜けるような青空が広がっていた。
「ここら辺で一番高い丘だ。少しは、涼しいだろ?」
 自分達が立っている場所以外は、断崖絶壁に近い。
 半ば気を失っていたから分からなかったが、かなりの急勾配を登ってきたようだ。
「ここは、わしの秘密の場所だ。母ちゃん以外は連れて来たこたぁねぇが、お前は諸葛亮の部下だからな。特別に、連れて来てやったぜ」
 担ぎ上げていたのを、良く見えるようにと気遣ってか横抱きに直される。
 視界が広くなり、見渡す限り緑で埋め尽くされた大地が広がっているのを目の当たりにした。
 声が出ない。
 深い青い空と相まって、一枚の美しい錦絵に見える。
 否、こんな美しい錦など存在し得るものではない。
 まさに天が作りたもうた奇跡の大地だ。
「素晴らしい、ところです……」
 それだけ言うのがやっとだった。
 どんな賛美も言葉足らずだろう、だから、それしか言えなかった。
 けれど、孟獲は甚く満足したらしく、満面の笑みを湛えて頷いた。
「そうだろう!」
 大地を見下ろす孟獲の目が、きらきらと輝いている。
 ああ。この人は、この大地に恋焦がれている。
 こんな土地のいったい何処がいいのだろう、さっさと捨ててしまって中原にでも来ればいいのに、等と心密かに悪態を吐いていた己を、は密かに恥じた。
 孟獲は、この大地の隅から隅まで、恐らくは祝融を想う以上に恋焦がれている。
 思わしい答えを得られるとか得られないとか、そんなことはきっと些細なことに過ぎず、ただ一途にひたすら愛しているのだ。
――何て無謀な恋をする人だろう。
 最大の感嘆を篭め、は孟獲を見詰めた。
 大王の称号は、単に強さを量ってのことではなく、どれだけ深くこの大地が愛せるかの証のように思えてならなかった。
 諸葛亮の目は確かだったのだ。
 孟獲を殺さずに居てくれて、本当に良かった。孟獲さえ居てくれれば、蜀と南蛮の友好は永く続くに違いない。
「……お、少ぉし、顔色が良くなったんじゃねぇか?」
「えぇ、大王が素晴らしいものを見せて下さいましたから」
 頑張ろう、と思えた。
 その気力が、の弱った体を少しずつ元気にしていっているような気がしていた。
 孟獲の、ほんの十分の一でもいい、この大地を愛し慈しみ、そうしたらきっと、蜀と南蛮を繋ぐ職務をこなすのも容易いに違いない。
 自分に足りなかったのは、まさにこの大地を愛そうという心掛けだったのだとは思い知らされていた。
「そうか」
 孟獲はにっかりと笑うと、を再び担ぎ上げた。
「そろそろいい頃合だろう。帰るぜ」
 返事を待たない強引さも、この際は頼もしいとしか映らない。
 人の心の何と身勝手なことか。
 は、孟獲の背中でこっそり苦笑した。

 そうして笑顔で戻ってきただったが、出掛けている間に自分の室が毛皮や得体の知れない獣の骨などで装飾され、すっかり南蛮風に変えられてしまっていたのには声も出なかった。
「変な病に掛からねぇよう、しっかり呪いもしておいたからな!」
 自慢げな孟獲に、は引き攣った笑みを浮かべた。
 孟獲の十分の一でも、自分はこの地を愛せるだろうか。
 いきなり不安になるだった。

  終

(お題提供:確かに恋だった様)

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