+++誰にも知られずにこの恋が終わっていく
呂蒙様が亡くなられた時、私は涙を流さなかった。
冷酷な女だと詰られたが、気にしたものでもなかった。
他の文官共が嘆き悲しんで投げ出した執務を、その埋め合わせのように片付け続けた。
ご家族の方に呂蒙様の遺品をお返しし、私が残務のすべてを片付けてしまうと、呂蒙様の執務室はがらんとしてしまった。
主の居ない執務室とは、こんなにも寂しく、まるで打ち捨てられた廃墟のような趣を漂わせるものなのか。
どうでもいい事実を、私はぼんやりとしつつも記憶に刻み込んだ。
こんな知識でも、いつか役に立つかもしれない。
私は記憶力がいい方だ。
呂蒙様にも、そこを重用していただき格別のお引き立てに預かった。
私の立身出世は、呂蒙様の人を偏見しないお人柄のお陰といっても過言ではない。下働きの下女を文官として迎え入れようという武官など、早々居るまい。
偶々だが、呂蒙様を尋ねられたお客様の名前を伺い損ねた者が居て、居合わせた私がその方の人相風体を細かく申し上げたことで事なきを得たそうだ。
学問を勧められ、意外にも才があると呂蒙様が認めて下さって、私は下女から文官職へと鞍替えすることと相成った。
何でも良かったのだ。
私は、呂蒙様のお傍で働ければ、何でも良かった。
呂蒙様が使っていらした執務机を撫で、呂蒙様が座っていらした椅子を引いた。
重い樫の木で出来た椅子は、その分しっかりとした作りで呂蒙様のお人柄を偲ばせるようだった。
主を失くした椅子は、与えられる熱を失ってひんやりと冷えていた。
肘掛けを撫で、ここに置かれていただろう大きな無骨な手を思い出し、私は幻に重ねるようにして自分の手を置いた。
優しい方だった。
自分に厳しく、過酷なまでに己を責める方だった。
そんな方の重荷になってはいけないと思って、だから自分の浅ましい気持ちを打ち明けよう等とは思わなかった。
――誰にも知られずにこの恋が終わっていく。
一人きりの執務室、午後の日差しがあまりに緩く穏やかに伸びるもので、私の気持ちも緩やかに解れてしまったのかもしれない。
突然涙が零れ落ちて、私は慌てて目元を押さえた。
出ないで。流れてしまわないで。零れ落ちてしまわないで。
涙は辛い記憶を洗い流す為に出るのだと聞いたことがある。
私には必要ないことだ。
呂蒙様との記憶はすべて、ただ愛おしいだけで辛いものでは決してない。
私は、呂蒙様の何もかも、この身と心に刻んで置きたいのだから。
泣かなかったのではない。泣けなかったのではない。泣きたくなかったのだ。
なのに、何を今更。
指の隙間から滲む濡れた感触を、私は必死に握り込んだ。
駄目、やめて、止まって。
願って回避できるものならば、呂蒙様は死にはしなかったろう。
十二分に分かってはいるけれど、この目は私の目なのだから私の言うことを聞いてくれてもいい。
せめて呂蒙様の記憶だけは、流してしまわないで。
必死に、懸命に願っても、どうしても涙は止められない。
私は一人、途方に暮れて泣き続けていた。
終