毎年続けていた習慣を、今年に限って忘れてしまった。
仕事が忙しく、気が付いたら申込期間を過ぎていたのだ。
うっかりしていた、と溜息が出る。
「どうかしましたか」
顔は書類に向けたまま、手は忙しく動いている諸葛課長から声が掛かる。
「あ、いえ……」
「今日は、朝から既に12回の溜息を吐いていますよ。悩み事なら仰るといい」
仕事の能率に差し支えると言われてしまうと、は二の句が継げない。
「すみません、でも、本当に大したことではないので。溜息の方は、気を付けますから」
諸葛亮はそれ以上追及することもなく、軽く頷いて引き下がった。
それにしても、良く見ている。
尋常ならざる書類の山を、これまた尋常ならざる速度で片付けているというのに、部下の溜息の回数までカウントしているとは思わなかった。
別に大袈裟にしていたつもりもない、漏らした溜息は極々小さなものだった筈だ。
それは、真横に居られたらウザいぐらいは思われるかもしれないが、諸葛亮の席との席は距離にして5、6メートルは離れている。
これもまた大袈裟な話ではなく、諸葛亮の元に集められる書類が多過ぎて、諸葛亮のデスクの周りには書類置き場が備え付けられていたので、一種離れ小島のようになっているのだ。
書類やファイル、データディスク等が積み重なって、の位置からは諸葛亮の顔が辛うじて見える程度だ。
だったら、諸葛亮からもたいして見えるとは思えない。
それでいて溜息がどうこう回数がどうこう言えるのだから、諸葛亮の底が知れなかった。
しかし、それにしても悔やまれる。
が生まれた年からずっと、クリスマスにはサンタからの手紙が届けられていた。
無論、『トナカイに乗って夜空を飛び回るサンタさん』ではなく、サンタ試験に合格した職業『サンタ』な人々からの手紙な訳だが、それでもにとっては毎年密かな楽しみだった。
申し込みをして代金を支払えば届くこの手紙も、最近はネットやニュースでそこそこ知れ渡るようになっていた。が、が生まれた当時にはまだまだレアな情報だった筈だ。
両親が如何にその手の物好きだか知れようものだが、は反感も覚えることもなく、自力で稼げるようになってからは自分で申込をしてきた。
Merry Christmasで始まる定型文に過ぎなかったが、フィンランドの消印で届くエアメールは非日常を醸してくれて、それだけで楽しくなるのだ。
生まれてこの方続いてきた手紙が、今年だけ途切れてしまったことに未練が残る。
発送期間は結構アバウトで、必ずクリスマスに届けられるということもないのだが、それが却って楽しみだった。
今年は、家に帰ってわくわくしながらポストを覗きこむことはないのだ。
溜息が出た。
「13回目ですね」
上から声が降ってきて、は思わず飛び上がった。
いつの間にか諸葛亮が側に来ていて、屹立した姿勢のままを見下ろしている。
「か、かかか、課長。す、すいま、せん」
気を付けると言った矢先に溜息吐き出したので、わざわざ叱りに来たのかと思った。
けれど、よくよく考えれば溜息を吐く前に諸葛亮はの隣にいた訳で、エスパーでもない限りそんな予測が付くとも思えない。
しかし諸葛亮ならばあるいは、と思わせるものがあって、は内心薄気味悪く諸葛亮を見上げた。
諸葛亮は澄ました顔で、『手紙ですよ』とに1通の封書を差し出している。
「……え」
見れば、それはエアメールだった。
まじまじと見詰めるの手を取り、諸葛亮はエアメールを握らせるとデスクに戻った。
穴が空く程見ていたが、それがエアメールであり、フィンランドから届いた消印であることに変わりはない。
宛先も、住所こそ会社宛になっていたが、に宛てて送られていた。
リターンアドレスを確認すると、そこにはどうにも達筆な字で『Santa Claus』と署名されていた。
目が点になるとはこのことだ。
レターオープナーで丁寧に封を切ると、中には綺麗な厚手のカードが1枚入っているきりだった。
二つ折りされたカードを恐る恐る開くと、赤い縁取りに金の模様が箔押しされており、青みがかったインクで『Merry Christmas!』と大きく記されている。その下には小さめに、流れるような筆記体で『良いクリスマスと新年を』というありがちな挨拶が書きこまれていた。
「…………」
言葉にならなかった。
今年はもらえないと諦めていたものが、意表を突いて今手元にあるのが奇跡のように思えた。
は、カードを潰さないようにしかししっかり握りしめたまま、ふらふらと諸葛亮の前に進み出る。
「……あの、……あの、課長、あの……」
諸葛亮は書類から顔を上げず、手を忙しく動かし続けている。
けれど、口だけはに答えてくれた。
「月英が、急にフィンランドに出張になりましてね。存外、早く着くものだと私も驚いています」
そうではない。
「……毎年、手紙が届いたと教えてくれていたでしょう?」
だから覚えていた、今年は申し込むのを忘れていたという話も姜維から伝え聞いているとあっさり告白される。
確かに、親しみやすい姜維には何かの折にぽろりと話していたような気もしたが、それで諸葛亮がこんなことをしてくれるとは思わない。
「あの……あの、有難う、ございます……!」
それだけ言うのがやっとだった。
どうしても欲しかったという訳ではない。長年習慣にしていたことを、うっかり途切れさせてしまったことが残念だっただけだ。
それをしっかり覚えていてくれて、偶然とはいえ忙しい月英に手間を掛けさせてまで気に掛けてくれた諸葛亮の心遣いが嬉しく、ただただ感激した。
諸葛亮はおもむろに書類を置き、頬杖を着いてを見上げる。
「貴方は、良く働いてくれますからね。ほんの気持ち程度のことです」
「でも、でも……嬉しかったです、ホントに有難うございます!」
気を緩めると泣き出してしまいそうだ。
感激屋のつもりはなかったが、こんなに涙腺が弱いとは思わなかった。
諸葛亮は軽く首を傾げ、ふと思い付いたように口を開く。
「……そんなに感激して下さるとは思いませんでした。でしたら、お返しにクリスマスディナーに付き合っていただけませんか」
月英が出張した為、せっかく予約したディナーに行く相手がいなくなってしまったのだ言う。
「え」
が思わず躊躇すると、諸葛亮の顔に翳りが浮かぶ。
「……下種な男だと思われていたようですね……貴女がそんな風に見ていらしたのでしたら」
卑屈になる諸葛亮に、は慌てた。
「そ、そんなこと思ってませんからっ!」
「いえ、いいのですよ」
「や、ホントに、ホントにそんな風には思ってませんからっ!」
「そんな風には、ということは、違う風には思われていたのですね……私ともあろう者が、貴女のお気持ちを察することも出来ず」
感情で喚き散らすと、理屈でごり押す諸葛亮。
どちらが勝利を収めるかなど、端から知れていようものだった。
結局、諸葛亮とディナーの約束をする羽目になったは、御馳走される内容に見合うだけのプレゼントを考えて溜息を吐き続けることになる。
その溜息を諸葛亮が注意することは、ついになかった。