シャンパンを開け、底が尽き掛けた頃、は冷蔵庫から冷酒を取り出して戻ってきた。
ローテーブルにはクリスマスケーキと料理が並べられ、脚の辺りには乾きものの袋が積んである。
「まだ呑むんですか」
「とことん呑むぞ」
今日の為に、仕事はきっちり片付けたのだ。
「だから、今日ですか…」
馬岱はちらりと時計を見遣る。
時刻は夜の10時近かったが、日付は23日だ。
は夜を徹して呑んで、24日、つまりイヴに突入する心積もりで居たらしい。
25日は出勤だから、徹夜で呑もうとなるとやや厳しい。繁忙月の末を前にしたらしい、仕事熱心な心配りとも言えたが、ムードは欠片もなかった。
「どおりで、やたらと酒が置いてあるなと思いましたよ」
「いいでしょ? ワインセラーが置いてある一人暮らしの女の家なんて、相当侘しいぞ」
「自分で言わないで下さい」
のマンションは賃貸ではなく、ローンが残っているとは言え自分名義の購入したものだった。
平均給与の高いK.A.Nで、それなりに激務こなしているとそれなりにもらえる額も上がる。上役の董卓にも精一杯媚を売っていたから、査定も悪くなかった。
何より、普通のOLより服や靴が安く手に入る。自社販売をやっているのだ。
ワインセラーは、その余剰金で購入した。
「何でワインセラーですか。もう少し、何かなかったんですか」
「貯金はしてるし、車はあるし、一人で旅行に行っても侘しいし行く暇もないし。何に使えってのよ」
「……デート代、とか」
「相手が居ないじゃない」
シャンパンを飲み干し、同じグラスに冷酒を注ごうとするに馬岱は呆れ返った。
「せめて、グラス変えましょうよ。俺が、洗いますから」
またか。
追求を誘うように『俺』に力を入れて発音する馬岱に、はまた意識して流した。
尋ねたら、何かよろしくない罠が待ち構えているような気がした。
妄想かもしれないが、妄想だとしてもそれはそれで構わない。
セフレという関係は、友達と言うには少しばかり偏屈に過ぎた。何処まで何を如何許していいか、未だに困惑している。
そんな状態に今更ゲームという要素が一つ入ったところで、良くもなるまいが悪くもなるまい。
馬岱が自分を『俺』と言い、はそれに反応しないというゲーム。
面白くなるかどうかは、当事者のテンションの問題だけだ。
せいぜい私の気を引くよう頑張れ。
明け透けな物言いをする胸の内を聞けば、馬岱も怒り出しての元から去るかもしれない。
でも、それでもいいや。
ただ一人で居るのが寂しいと、それだけの理由で過ごすイヴなのだ。
一人ぼっちが二人で居て、それが一人になろうが一人ぼっちは一人ぼっちのままだろう。
変わらないなら、楽しんだ方がいい。
頬杖突いて馬岱が戻るのを待っていただったが、馬岱はいつまで経っても戻ってこなかった。
グラスが見つからないのだろうかと目をやるが、昼過ぎからやって来て、3LDKの部屋全部を掃除して回った馬岱がグラスの場所が分からないというのもおかしな話だ。
食器を元あった場所に戻せと言うのではなく、ただ出してくるだけなのだ。食器棚を適当に開ければ、適当に突っ込んである筈だった。
そんなことを考えている間も、馬岱が戻る気配はない。
あれ。
いい加減気になり始めて、はキッチンに向かった。
薄暗いキッチンでは、馬岱がシンクにもたれて何かを見ていた。
何気なく馬岱の視線を辿ると、水切り籠にバカラのグラスが入っている。
「これ、いいですよね、使っても」
テーブルの上に、空き箱が転がっていた。
食器棚の一番奥に仕舞っておいたのを、目敏く見つけ出していたのか。
自分が使うものは自分の気に入ったものをというには珍しく、プレゼントでもらったものだった。
贈った当人にすら使わせず、時折取り出しては日の光に透かし、そのころんとしたデザインの可愛らしさ美しさを見て楽しんだものだった。
今は、側面の赤いシールも剥がされて、綺麗に洗われてしまっている。
全然別のものに見えた。
「……いい、けど」
「けど?」
聞き返されても、何と言っていいか分からなかった。
――それ、伯符にもらった奴だったのに。
出掛かった言葉は、喉に揺蕩ったまま溶けていった。
リビングに戻り、元居た位置に座り込む。
「さん」
馬岱が追い掛けるように戻ってきた。
「……すみません、使っちゃ駄目な奴でしたか?」
「いいって」
いい、と言ったではないか。
無言になってしまった馬岱に、も何を言っていいか分からない。
へらへら笑えばいいだろうか。
――ホントにいいって、気にしないで。別に、何にもないんだから。
――伯符に貰ったってだけで。
胸の内でシミュレーションしても、そこで感情が凍り付く。
ああ、私、伯符が好きなんだなぁ。
過去形ではなく、完了形でなく、現在進行形での確認。
まだ、好きなんだ。
つんとくる痛みは堪えがたかったが、堪えられないものでもない。
ならば、問題はない。
今までは、それすら気がつかなかったのだから、これは偉大な進歩と言えよう。自覚しなければ、忘れることもままならないのだから。
感情は現在進行形でも、関係は既に終わっていた。今更がどうこう言っても仕方がない。
よりを戻そうとは思わなかった。
そんなみっともない真似はしたくなかった。出来なかった。
不倫だったのだから、いつかは清算しなくてはならなかった関係だ。半年前にそれを済ませ、今、ようやく忘れようとし始めている。
でも、本当に忘れられるだろうか。
あんなに好きだったのに。
あんなにいっぱいしたのに。
人としての理性と、女としての感情が激しく対立する。
「……あぁ、セックスしてぇー!!」
黙りこくっていたが突然叫び出し、馬岱は不意を突かれて仰天した。
「……さん、欲求不満の男子高生みたいなこと言わないで下さい」
「それは男子高生への偏見だ」
また、と馬岱は口を曲げた。
「ああ言えばこう言うみたいな、そういうの良くないですよ。誰に影響されたんですか」
「かなぁ」
誰ですかと尋ねられても、は返事もせずに『セックスしたい』と連発する。
「ギヤクだから何だとかって、セックスしないって言ったのさんでしょう」
「うん、偽薬。だからセックス出来ないんだ。あぁ、セックスしたいな」
馬岱は眉を顰め、酔っ払ったような素振りのを見詰める。
「……偽薬って、そも何なんですか」
「偽薬は偽薬でしょ」
だから、と馬岱はややうんざりして、再度同じ質問を繰り返す。
「知らないんですよ、だから教えて下さいって言ってるんです」
はしばらく考え込み、不意に『あぁ』と小さなうめき声を上げた。
「そっか。教えてなかったっけ、あんたには」
には、という助詞から、誰かの影を感じるかもしれない。
気付いたけれど、今更言った言葉は取り消せず、は流してしまうことにした。
「偽薬って、要するに生理期間中に飲む薬のこと。それじゃ分かんないか。だから、ピル飲み続けてる間は生理来ないじゃない? で、ずっと生理ナシって訳にもいかないから、ピルの代わりに偽物の薬飲む訳。だから、偽薬」
偽薬を飲んでいる期間中に生理が来て、それが終わったらまたピルを飲むという次第だ。
「ずっと飲んでる訳じゃないんですね」
「そー。だから今、生理中なの」
さすがに生理中にセックスしたいとは思わない。したいという欲求はあっても、経血が流れ落ちている時に挿れたいとは思えない。
男だってそうだろう。
「しましょうか」
フェイントをもろに食らって、は肘を突いていた顔を上げた。
目を丸くして馬岱を見る。
馬岱は、くす、と小さな声を立てて笑った。
「生理中でも、別にしてもいいんでしょう?」
「……つか。生理中だって言ってんだけど、私」
話が噛み合ってない。
自覚はしつつ、しかしはどうしても馬岱の心境が理解できなかった。
興味本位だとしても、少し悪趣味に過ぎないだろうか。
馬岱は気にもしていないようだった。
「だから。していいんなら、別に気にしませんよ、俺は」
「俺はって」
あ。
しまった、と思った。
一切反応しないと決めていたのに、反応してしまった。
馬岱はの挙動不審には気が付かなかったのか、身を乗り出して口付けてくる。
柔らかく温かなそれを一旦受け止め、はすぐに離れた。
何だと馬岱が目で問い掛けてくる。
「もうちょっと、呑んでから」
放置されたままの冷酒の瓶に手を伸ばすも、先に馬岱に取り押さえられてしまった。
「駄目です、酔ってそのままして、寝てしまったらどうするんです。ある意味、大惨事になりますよ」
「大惨事って」
言うに事欠いて大袈裟だと思ったが、確かに大惨事は大惨事だろう。血の染みは落ち難いのだ。
「キッチンか、脱衣所辺りで如何です。汚しても、簡単に掃除できますし」
如何もくそも。
の手を引き早くも犯る気になっている馬岱に、は若いなぁとただ感心するばかりだ。
生理中だと言っているのに、分かっているのだろうか。
でも、初めてすることでもないしね。
記憶がフラッシュバックして、は唇を噛んだ。
「……どうかしましたか」
足を止めたに合わせ、馬岱も足を止める。
伯符だったら、ここで私を抱え上げて、それで。
「うぅん、何でもない……脱衣所にしよ、ヒーターがんがんに付けて。すぐ洗えるし」
「相変わらずムードないんですね」
逆に馬岱の手を引いて歩き出したに、馬岱は苦笑を漏らした。
キッチンにはバカラのグラスが置いてあるだろう。
だから、嫌だった。