大喬は、気付かれないようにそっと盗み見た。
雑踏に紛れるようにして並ぶ二人は視線を交わすこともなく、けれど離れることもなく立っていた。
戸惑っているのが手に取るように分かる。
孫策は大喬にせがまれるまま、飛び出すように家を出てきたのだから戸惑うのも仕方ない。
だが、が何故戸惑っているのだろうか。
この神社のこの場所でと指定してきたのは、の方の筈だった。
連休も終わり間近で、恐らく例年の如く年末ぎりぎりまで働いていたも、そろそろ体力を回復している頃だろうと思い切って携帯に連絡を入れた。
鳴り響くコール音に、が出る気配はなかった。
登録したままになっていれば、大喬の名前が表示されただろう。登録を消していたとしても、が大喬の携帯ナンバーを覚えている可能性は高かった。
出たくなくて出ないのではないかという予想は容易に考えられる。
それでも、大喬は諦めずにコール音を鳴らし続けた。
今日でなくても明日は出てくれる、明日が駄目でも明後日にはきっと。
三回連続で掛けて、三回とも留守録に回された。
忙しいのかもしれない。
休日の最中、何が忙しいのか見当も付かなかったが、前向きに考えることにして携帯を置き席を立った。
メールは席を外したわずかの間に届いていた。
神社の名前と場所だけ記された素っ気ないメールだったが、大喬は驚き、また大いに喜んだ。
声だけで遣り取りするよりは、面と向かって話した方がいいに決まっている。まして、から会おうと動いたとなれば、の方にも大なり小なり歩み寄ろうという意志があるのだと感じられた。
これきりと決別するつもりで会おうとしているのかも知れない。
だとしても、半年以上経った今になって『決別』を考えているのだとしたら、それはこの半年間、が孫策に未練を持ち続けていたということになるのではないか。
それこそ、一人きりの時に塞ぎ込み、暗い視線を窓の外に投げ掛けていた孫策のように。
この機を逃してはならぬと、外出の用意もそこそこに飛び出した大喬にとって、の態度は不可解に過ぎた。
「……いらっしゃらないかと思いました」
不意の声に、一瞬、大喬は自分が話しかけられているのだとは思えなかった。
釣られるように声の主を振り仰ぐと、柔和な笑みが大喬に向けられた。
不思議な感覚に襲われる。
笑みは柔和で人懐こいのに、大喬は何故かその笑みを怖い、と感じてしまっていた。
「さんを引き止めるの、少々骨が折れましたよ。もしやお出でにならないかと心配しました」
「え」
では。
「あのメールを送ったのは、私です」
にっこりと笑う表情に、大喬は鳥肌立つのを感じた。
「ど……どうして」
の携帯からだったから、当然からだと思っていた。
名も知らぬ男から呼び出されるなど、想像外もいいところだ。
おろおろとうろたえる大喬に、男は空恐ろしくも優しい笑みを絶やさず朗々と答える。
「鬱陶しいからですよ」
「え」
詰っているのだろう言葉を、笑みを含んで吐き出す男の意図が読めない。
立ち尽くす大喬に、男はただひたすらにこやかだった。
「貴女は、を一体何だと思っているんです? 別れた愛人を呼び戻そうなど、許嫁のすることではないでしょう?」
「あ、愛人なんて」
孫策はのことを想っている。
それは、愛人だとか正妻だとか、そんな言葉で分けられるような気持ちではなかった。大喬が孫策を愛し、孫策が大喬を大切にしているのと同じ関係が、孫策との間にもある筈だった。
大喬との関係もそうだ。
同じ男を想う者同士、いがみ合うこともなく互いを尊重してきた。
「綺麗事ですよね?」
あっさりと、完膚なきまで否定される。
「はそんな綺麗事に付き合うのが嫌になって、それで貴女方から離れたんでしょう? だからもう、いい加減に放って置いてくれませんか。これ以上、彼女に付き纏うのは止めていただきたい」
男は、甘酒を二つ注文すると、さっさと代金を支払う。
屋台の女将と思しき老女が、青褪めて立ち尽くす大喬をいぶかしげに見詰めた。
甘酒の入った紙コップを片手に、男は大喬の肩を押して屋台の行列から抜け出す。
大喬の手を取ると、紙コップの一つを持たせた。
「あの男を支えるのは、別にでなくてもいい。否、貴女が一人でおやりなさい。それが常識と言うものです」
ね、と微笑み掛ける様は、言葉の内容と酷くそぐわない、とても優しげで穏やかなものだった。
男の背を見送るしかできない大喬は、自分がいつの間にか泣いていることに気が付いた。
否定したかった。
言い返してやりたかった。
けれど、何も言うことが出来なかった。
悔しい。
込み上げる感情は、大喬の意識よりも体の方を先に反応させたらしい。溢れる涙は止まることなく、大喬自身も止めようとは思えなかった。
「大喬?」
近付いてくる愛しい人の影は、涙でぼやけて確とは分からない。
「どうした、大喬。何があった」
切迫する声に、如何に大切に想われているかを実感する。
同じように、同じくらい想われているを、あの男は奪っていくつもりなのだ。
「孫策様、私、私、悔しいです」
返して、と胸の内で叫んでいた。
三人で居るだけだったら、いつまでも穏やかで優しい時間が過ごせていた筈だった。世間の常識など何の価値もない、必要のない空間だったのだ。
三人で居ること、孫策が二人をそれぞれに愛してくれ、大喬ともそれぞれ孫策を支えていくことこそが、三人の常識だったのだから。
それを今更、分かったような口で常識などと諳んじられるのは堪らなく嫌だった。
「様を他の人に盗られるの、嫌です。私、それだけは嫌です」
大喬は、孫策の気配がぎしりと音を立てて強張ったのを感じた。
「……俺も……嫌だ」
が盗られる。居なくなる。
それだけは、嫌だ。大喬にも、孫策にも、許せないことだった。
男に連れられ、が去って行った方向を孫策は睨め付けた。
付き合っていると『嘘』を吐いたの横顔が、孫策の記憶に鮮やかに焼き付いている。
下手くそな嘘、吐きやがって。
誰の為の嘘なのかは知らない。もうどうでもいいことだった。
去ろうとするなら、力尽くで引き戻す。
繰り返してきた約束を、今また繰り返してはならぬという法はあるまい。
怒りと共に精気に満ちる孫策の姿は、大喬にとって実に半年振りに見るもので、この場の雰囲気にそぐわぬと思いながらつい嬉しくて笑ってしまった。
手の中で、甘酒が少しずつ温くなっていった。