フロアの空気が一瞬凍り付いた。
 低い、落ち着いた割によく通るその声は、決して小さいものではなかった。
 声の主は、しまったとでも言うかのように口元に指を当て、取って付けたように慌てて付け足した。
「……さん」
 捩じ込まれた不自然な間が、普段はさん付けなどしていないのだと強烈にアピールしている。
 贈賄疑惑の渦中にある政治家が、選挙時に置ける街頭演説で自分は庶民の味方だ清廉の身だと喚き立てているようなものだ。
 呼ばれたは、誤魔化すような馬岱の笑みに、同種の腹黒いものを感じ取っていた。

「おねーさま、どういうこと!?」
「あんたはあんたでどーいうことよ」
 仕事を終えた後、は更衣室で待ち構えていたにとっ掴まった。
 散々『お姉さま』は止せ、と言い聞かしているにも関わらず、をお姉さま呼ばわりするのを止める気配すらない。
 終業時間はだいぶ過ぎており、本日もそれなりの激務で過ごしたには、の噛み付きようは甚だしんどかった。
「ちゃんと白状したら、止めて差し上げますわ、おねーさま」
 うふ、と可愛らしくしなを作るに、はげんなりした目を向ける。
 実は、既に馬岱ともやりあった後だった。
 仕事の合間を縫って取り交わした携帯メールでの遣り取りは、の携帯の中にデータとして残っている。
 携帯を取り出し、一連のメールを呼び出す。
 無言で差し出すと、は目でを伺いながら、それでも黙ってメールに目を通し始めた。
 変なところが義理堅い。
 仲がいい相手とは言え、そのメールを見てもいいものかと逡巡したのが、はっきり見て取れた。
 見た目はまるきりそこらの浮ついた若い娘と変わらぬだけに、交際相手の趙雲の気苦労も透けて見えるようだ。
 ただ、だからこそ趙雲はを選んだのだろうとは思うけれど。
 がメールを読んでいる間、は手早く帰り仕度を済ませた。
「どっかで、食べて帰る?」
 ロッカーに向いたまま問い掛けるの誘いを、が断る筈もなかった。

 は、会社近隣、または駅近くの穴場を実にマメに押さえている。
 職業柄か、アフターでの打ち合わせや接待が多く、相手の気を緩める為にも良い酒上手い料理を出す店をとリサーチを続けた結果、はちょっとした人間ガイドブックとして社内に名を馳せていた。
 そんなが、プライベートで利用する店は穴場中の穴場と言って良い。
 『Syumi』は、そんな穴場の代表格と言って良かった。
「また、あんたは」
 相変わらず痩せぎすな体に黒のロングワンピを纏った女主人は、の顔を見るなり口汚く罵る。
 一見お断りのこの店は、常連客が一見客を連れて来てさえ怒るという風変わりな店だ。
 注文しようにもメニューはなく、客はその時食べたいものを当てずっぽうで注文する。
 あれば出てくるし、なければすげなく断られるし、運良く注文出来てもぐずぐずしていると他の客に横取りされるという、とんでもない店だ。
 それでも、酒や料理の美味さや居心地の良い空間に惹かれ、来る客は後を絶たないらしい。
「あんた達は、上」
「今日、スカートなんだけど」
 が言い返すも、女主人は頑健に上だと言い張る。
 同行したには、何のことやら分からない。『Syumi』歴が浅いのだ。
 しかし、も女主人もには何の説明もしないままで動き出してしまう。
 足元も良く見えないような薄暗さで、下手に置いて行かれると本気の迷子になりかねない。
 は慌てての後を追った。
 幸い、はすぐに足を止めた。
 のスーツに口紅を付けかけたは、つんのめるようにして立ち止まり、危うくその難を逃れる。
「登れる?」
「え?」
 何のことや分からん。
 がぽかんとしていると、は横合いにある壁をばしばしと叩く。
 よく見れば、壁ではない。
 梯子だ。
 上を見上げると、垂直に設置されたごつい鉄の梯子の天辺に、四角く切り取られた白い穴が見える。
「登れんと、今日は帰らなイカンのだけど」
「……登ります」
 登れる登れないではなく、登るしかない。
 は決意を凛とした眼差しに浮かべ、ミニのバルーンスカートの裾をたくし上げた。

 下に誰か居たら、パンツを見られていたかもしれない。
 何とか登り切った時、のスカートは半ばたくし上がってショーツの中程まで露呈していた。
 後から登ってきたのラップスカートも似たような状態で、お互いコートがロングで良かったと頷きあった。
「いや、通りすがりのサラリーマンに見られたけど。さすがにぎょっとしてたわねぇ」
 まず驚いてしまって、鼻を伸ばすどころではなかったようだ。
 料理を取りに来て太股剥き出しの女と出会ったら、それは確かに欲情する前に仰天するだろう。
 靴を脱ぎ、身だしなみを整えながら辺りを見回すと、そこは昭和の香りが漂うようなレトロな四畳半アパートに似た作りになっていた。
 下は女主人が篭もる厨房になっているそうで、だからあんまり暴れるなとに注意される。
「おとなしくしてるんだったら、寝ようが逆立ちしようが構わないらしいから。何か、噂じゃここでセックスしてったカップルも居るらしい」
「どんな勇者ですか、それ」
 のツッコミを、は知らん、と軽く流した。
 壁に立てかけてあるちゃぶ台を起こし、その横にある食器棚からグラスを取り出す。
 冷蔵庫の中を物色して、入っていたらしいチーかまとビール瓶をちゃぶ台に並べた。
「……ねぇ、『Syumi』ってホントにどういう店なんですか」
「知らん」
 の問い掛けをまたもが軽く流した時、ポン、と軽い機械音が鳴ったのが聞こえた。
 てっきり窓があるのだと思ったカーテンがめくられると、そこには部屋の内装にそぐわぬ銀色の板が貼り付けてある。
 が慣れた様子で板を押し下げると、中からぐつぐつ煮えたぎる音が聞こえてきた。小さな荷用エレベーターだったらしい。
「シーフード鍋だぁ」
 が初めて『Syumi』に来た時も出た品で、以来は『Syumi』のシーフード鍋を夢にまで見るようになっていた。
 それぐらい、美味い。
 自分が美味しいと言ったことを覚えていたのだろうかと思い返すも、ここの女主人が心を読めるということを思い出し、むしろそちらの目算が高いと踏んだ。
 それにしても、出てくるのが早い。多分また、他の客の注文品を横流ししたのだろう。
 しばらくの間、ビールにチーかま、シーフード鍋という非常に適当な組み合わせを堪能する。
 途中、梅酒の瓶と氷が上がってきて、二人はビールから梅酒に切り替えて飲み続けた。
 きっかけもないまま、話題は馬岱の話になっている。
「……岱君とは、いつから?」
「さぁ。十一月……んにゃ、十二月入ったくらいかな」
 付き合っている訳ではない、とは小さく付け足した。
「それは、まぁ、メール読んだから分かるんだけど」
 互いに忙しいもの同士、どうしても話をしたいなら方法は限られてくる。仕事が終わるまで待てなければ、トイレ休憩の狭間にメールを打つぐらいしかなかった。

 さっきの何

 >さっきの何
 ?

 呼び捨て

 >呼び捨て
 駄目ですか?

 職場で困る
 付き合ってるみたいに思われる

 >職場で困る
 が俺のこと呼び捨てにするなら止めてもいい(^_^)
 >付き合ってるみたいに思われる
 付き合ってるよ?(^_^)

 ふざけてるならやめてくれる

 >ふざけてるならやめてくれる
 ふざけてないから

 これだけだ。
 遣り取りとしては非常に短い。
 けれど、句読点すら忘れがちなこれらの遣り取りをするのに、と馬岱はほぼ一日を掛けていた。
 どれだけ忙しいかが知れる。
 そして、それだけに互いが苛立っているのも知れた。
「私、岱君と付き合ってたこと、ある」
 の告白に、はぎょっとして息を飲んだ。
「一日だけね。キスもしなかった。……何て言うかな、凄く相手のことが分かって……分かり過ぎて。あー、こりゃ駄目だねって二人で笑って、それで止めにしたの。ナルシストじゃあるまいし、自分で自分のこと、惚れたり好きになったり出来ないでしょ?」
 言われて、は妙に納得した。
 馬岱とは似ている。
 人との線引きの明瞭さ、開けっぴろげに見えて踏み込ませぬ隠れた領域を持ち、プライドが異様に高いところ、それを巧妙に隠すところ、けれど恋い慕う相手にだけは、そのプライドの高さを苛烈なまでに隠さないところ等々、微細な点を含め、この二人が似通うところはあまりにも多い。
 あまりに似過ぎている為、何と言うこともない負の感情すら共鳴して苦痛になってしまうから、友人として親しく付き合うことすら出来ないのだと言う。
 如何にも気が合いそうに見える二人にも関わらず、あまり付き合いがないように見えたのはそのせいだったらしい。
「……その私から言わせて貰うと、岱君、本気でさん落としに掛かってるの」
 似ているだけに、好きなタイプも似通っている。
 だから馬岱が、自分が慕い懐くに気を引かれても当たり前だとは考えた。
「恋愛感情か友情かは分かんないけど、岱君がさんのこと好きなのは、これは保障します。絶対、そう」
 自分が、そうだから。
 の言葉は、一々重みがある。馬岱自身が言っているようにも思えた。
「第一、岱君がさ。敬語使わないなんて、初めて見たからびっくりしちゃった」
「それで、何度もメール見てたの」
 がこくりと頷くのを見て、は重い溜息を吐いた。
「……岱君、恋愛したくなったのかもしれない。自分は、恋はされても恋するのは絶対に無理だー、なんて笑ってたけど。何か、変わろうって、無理して頑張ってるって気がするの」
 の目が、ちらりとを捕らえる。
 針の先で突付かれるような視線に、は居心地悪く目を閉じた。
 がそう言うのなら、そうなのだろう。
 けれど、その理屈で言うなら、馬岱の相手はでなくていい筈だ。
 単にセックスを楽しむ相手として見ていた、少なくとも見ようとしていた相手の心変わりは、には重過ぎた。セフレになろうと言い出したのは、馬岱の方ではないか。
「……岱君、いい奴なんだけどな。駄目、かなぁ……」
「別に、あんたのことじゃないでしょうよ」
 は馬岱に肩入れするあまり、馬岱に自分を重ねて見てしまっている。
 もしもが馬岱を否定すれば、は我が事のように傷付き悩むだろう。
 共鳴と言う言葉は、あながち嘘でも大袈裟でもないのかもしれない。
 そうして心が繋がる人間が趙雲以外にも居るが、には羨ましく思えた。
 自分には居ない。
 少なくとも、心が繋がったという記憶はない。
 孫伯符をしてさえ、は心を通じた覚えがなかった。
 エレベーターが、茹でたてのスパゲティをザルごと運び上げてきた。
 体に沸き立つセックスへの欲求を、は食欲に紛らわせて打ち消した。

  

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