しばらくの間、馬岱からの連絡はなかった。
 あまり追い詰め過ぎるとがキレると踏んだのだろう。距離を置いて、余裕を取り戻させてやろうと思ったに違いない。
 また、一人で居させることで、生身の男のモノに飢えさせてやろうと考えているのかもしれない。
 そうした馬岱の思考が読めてしまうことに、読ませられていることに、は少々うんざりしていた。
 馬岱の方も、読まれている、読ませられていると覚られていること等、先刻承知なのだと思う。
 そうした遣り取りを楽しめる仲なら良かったが、生憎はそういう性分ではなかったし、馬岱もまたそうだったろう。
 面倒臭い。
 ぐったりさせられる。
 馬岱も、きっと疲れていると思われた。
 ただ、救い難いのは、馬岱の方はそうした疲れを新鮮に感じているだろうことだった。
 類は友を呼ぶではなかろうが、馬岱がこれまで付き合ってきたのは、皆似たり寄ったりの性格の子だったらしい。
 家庭的で優しい、女の子らしい女の子。
――の、フリをしている夢見がちなお姫様願望の強い女性達。
 馬岱の口はかなり悪い。
 普段は包み隠しているらしい性癖は、馬岱が所属するTEAMの監視役たるですら知らなかったことだ。余程上手く隠していたのだろう。
 馬岱が今の状況を楽しんでいるのは、それこそ馬岱の勝手だ。
 だが、それにがお付き合いしてやる義務も義理もない。
 もっと楽な恋愛がしたかった。
 多分、は男に生まれれば良かった。
 馬岱曰くの夢見がちなお姫様願望の強い女の子でも一向に構わない。仕事に専念するの代わりに家庭を守り育んでさえくれたらいい。
 はその代わり、せっせと給金を運び、たまの休みに愚痴を聞いたり家族サービスを強請られたりして、ぶつくさ不平を言いながら車を出すのだ。時折、花束やケーキの安い土産を手に、いつも有難うなどと照れながら感謝したりする。
 典型的なホームドラマ、スリリングな駆引きも情熱的な感情のぶつけ合いも要らない、うんざりする程退屈な日々であればいいと思う。
 最初からがおかしかったのだ。
 青春よろしく空手道場に通っていたは、今やローカル競技に近いこの武術で身を立てることを夢見ていた。
 それが壊れたのは、現実の厳しさのせいではなく、たった一人の男のしょうもない衝動のせいだった。汗を流して真剣に稽古に打ち込むの姿に、気が付いたら抱き着いていたのだと、ずいぶん後になってから聞かされた。
 知ったことかと思うが、神聖な道場で良からぬ振舞いに及んだと、何故か一人が叱責を受ける羽目になった。
 そして、それが単純に道場の利害得失を量ってのことだったと知ってしまった。
 他人なんて信用ならない、どうせ自分のことしか考えていないという不信感は、この時からの心に深く根を張った。
 人間不信に陥ったは、人とある程度距離を置くことで自分を守ってきた。
 山奥に引き篭もって生活したとて、一人で生きていける訳がない。
 ほぼ同時に現実主義に目覚めたは、早くにそのことを覚っていた。
 結局、己が半端者でしかないのだということは気付いている。
 格好良いことばかり言っても、単にいきがっているだけで、浅慮も浅慮だ。突き詰められていると言うなら、すべてを拒否するかすべてを受け入れるか出来ていなければおかしい。
 上司たる董卓に尻を撫でられる度、鳥肌が立つ。
 けれど、顔は満面の笑みを浮かべ、わざとらしい高い声を上げるのを忘れない。
 裏腹な気持ちに吐き気を覚える。実際、隠れて良く吐いていた。
 開き直れて居ない良い証拠だった。
 中途半端な自分への苛立ちが、をセックスに走らせていた。
 スポーツと言うにはあまりに苛烈な悦楽だ。
 マラソン等と違って、手軽にハイになれる。それがいい。
 は、なまじ体力があるせいか、走れば走る程頭が冴える。冴えた頭は嫌なことばかり再生する。
 セックスは違う。
 急転直下で意識を攫う。
 ただ、相手が居ないと成立しないのが難点だった。

 セックスしてぇな、とだらだら歩いていた。
 ようやく自宅のマンションまで帰り着いたところだった。
 酒が入っているのと、明日は休みだという安堵感が、を余計に疲労させていた。
 今日はもう寝ようと思って、何気無く自宅のドアを見遣った。
 孫策が居た。
 心臓が跳ね上がる。全身を回っていたアルコールが、一気に心臓に引き戻されたかのように胸が詰まって苦しくなった。
 声も出せなくなって、立ちすくむ。

 独自の呼び名が醸す韻律が、の体を熱くする。
 名前を呼ばれるだけで切なくなる等、あっていいことなのだろうか。
 は固く目を瞑り、心を鉄で覆うイメージを浮かべる。
 いい加減、しつこい。
 孫策も勿論だが、自分はもっとそうだ。別れると決めて別れて、付き合っている男が居ると言って、もう終わった仲ではないか。
 夜中に突然訊ねてくる無礼に喜んでしまうより、まず腹を立てなくては嘘だろう。
「……何してんのよ。こんな時間に、こんなとこで」
 眉間に力を篭めれば、自然に表情を誤魔化すことが出来た。
 ここで適当にあしらえば、孫策も無茶は言うまい。
 自分の体面等、鼻にも引っ掛けないが、それに周りの人間を巻き込もうとまではしない。ここがの自宅前である以上、ごねて後々が迷惑を被るような真似はしないだろう。
 無茶苦茶に見えても、守るべきラインは心得ているのが孫策と言う男だった。
 孫策は、もたれていた壁から体を起こし、何事かしばし考え込んでいるようだった。
 珍しくもどう切り出していいか悩んでいるような素振りに、が何かおかしいと感じた時だ。
「大喬と、別れた」
 ぽつりと短く小さな声で、とんでもない事実が告げられる。
 簡易な内容にも関わらず、の頭はその事実を理解できなかった。
 したくなかったと言うべきか、頭の中が真っ白に染まって、ただ呆然とするしかなかった。
 孫策は、困ったように乱雑に頭を掻く。
「……大喬と、別れたから、俺」
 繰り返される言葉に、体中から一気に汗が噴き出す。
 冷たい汗が気化して全身の熱を奪い去り、は強烈な悪寒に見舞われ眩暈を起こした。
 その場にへなへなと崩れ落ちるに、孫策が驚き慌てて駆け寄ってくる。

 心配して覗き込む孫策の前で、呆然としたままのの目から涙が溢れ出し、すぐに堰を切って溢れ出した。
 感情の浮かばない表情にそぐわない涙に、孫策の困惑は深まる。
「……。ここ、寒いから、な? 家ん中、入ろうぜ。な?」
 諭すように言い含めながら、孫策は当然のようにを抱き上げる。
 宙に浮く懐かしい感覚に身を任せ、は何故か『帰ってきた』と強く感じていた。

 家に上がりこむと、孫策は施錠もそこそこにの『看護』を始めた。
 慣れた様子で電気とエアコンを付け、キッチンから水を汲んでくる。
 ソファに座らせたの手にコップを握らせると、間近に座り込んで不安げにを見上げた。
 水を一口含むと、その冷たさにやや冷静を取り戻す。
 目元を軽く拭い、残っていた涙を拭き取ると、孫策に向き直った。
「どういうこと」
 主語はなかったが、充分だろう。
 孫策は困ったように目を伏せ、しかし他に手はないとばかりに覚悟して顔を上げた。
「大喬、自分が居るからお前が戻らないんじゃねぇかって言い出した」
「そんなこと」
 ある訳がないではないか。
 の言葉は最後まで紡がれはしなかったが、孫策はこっくりと頷いた。
「分かってる……お前が戻らねぇのは変わらねぇって、俺も言った。でも、それでももしかしたらって、大喬、聞かなくってよ」
「もしかしたらなんて、ない……」
 の声は力ない。
 絶望に囚われてしまったかのような、沈んだ声だった。
 大喬が孫策の傍に居ればいいと思っていた。
 孫策の傍らに大喬が居て、自分の存在など邪魔な筈だった。
 それが普通で、常識だと思っていた。
「……お前、どうしたら俺のとこに戻ってくる……?」
 弱々しい問い掛けだった。
 はっとして顔を上げると、孫策は初めて見せるような弱気な表情を浮かべていた。
 息が詰まる。
 怪我をして流血したときでさえ、こんな表情を見せたことはない。
 いつも強気で、元気で、我侭な男だった。
 どうしてこんな顔をするのか、分からなかった。
「俺が何したら、お前、俺のとこに戻ってくる? 俺、どうしたらいい?」
「どう……って……」
 そんなことを言われても、答えられない。
 居なくなるのが筋なのだ。居てはいけない存在なのだから。
 孫策がを欲して、その妻になる大喬もを欲して、でもそんなのは間違っているから、自身が踏ん切りを付けたのだ。
 正しい筈の選択を、今になって覆すことはできなかった。
「……何か俺、色々と考えてみたけど分からなくってよ……そしたら、勃たなくなっちまうし」
「はぁ!?」
 意表を突く告白に、は素っ頓狂な声を上げる。
 その声の大きさに、やはり仰天した孫策が肩をすくめてを見遣っていた。
「な、何だよ、いきなり」
「いきなりじゃないでしょ、何!? 勃たなくなったって、EDってこと!? あんた、今幾つよ!?」
「に、にじゅうろく……」
「二十六でEDって、ちょっ、あんたね……!」
 すっかり変わってしまった空気に、孫策は惑いつつもほっとしてもいた。
 前の状態に近い遣り取りは、孫策にとって居心地の良いものに他ならない。
 が孫策を怒り、叱り付け、孫策が苦笑しながら甘んじて受け止め、受け止めつつもをからかったり屁理屈を言い続けるというのが二人の常だった。
 それが楽しくて、嬉しかった。
 は、へらへらしている孫策を睨め付けると、ずいと前に乗り出した。
「見せてご覧」
「……へ?」
「へ、じゃないでしょ、見せてみろっつってんの」
 自ら脱がしに掛かるに、孫策は慌ててベルトを押さえた。
「み、見せてみろって、お前……」
「別に、今更でしょ。病院は? 行ったの?」
 孫策の手を剥ぎ取ろうとするに、孫策は泡を食いながらも抵抗を続ける。
「馬鹿、お前、やめろ」
「いいから。あんたのことだから、どうせ誰にも言ってないんでしょ?」
 言える訳がない、男として役に立たなくなった等、いったい誰に言えるというのだ。
 きつい視線に根負けし、孫策は渋々とジーンズと下着を下ろした。
「……ほんとだ。勃ってないとこなんて、初めて見た」
「うるせぇよ」
 孫策のものは、股間でぐんにゃりと項垂れたままだった。
 の言葉は嘘偽りなく、寝たままの孫策のものを見るのは正にこれが初めてのことだ。やるのが好きだと言う本人の主張を裏切らず、の前では常に怒張させていたし、孫策が萎えるよりがくたくたになる方が早かった。
 体力馬鹿めとよく罵っていたが、よくよく考えれば体力とこれは別問題かもしれない。
 指先に触れる感触は、ふに、ともぷに、とも付かない。
 女の乳房を寒天で凝らせたらこれに近いかと、埒もないことを考えた。
 触れられても、孫策のものに変化の兆しは見られない。孫策自身は眉間に皺を寄せ、微かに辛そうな表情を見せているから、感覚がまるでないという訳ではないのだろう。
「……あ、おい」
 孫策が慌てての肩に手を回す。
 は構わず、そのまま孫策のものを口に含んで愛撫を続ける。
 舌先で触れれば、尚その不可思議な柔らかさが伝わってくる。口をすぼめて吸い上げれば、微妙な振動が肉の奥へと素直に流れていく。
 口蓋の緩い丸みにさえ添う柔らかさに、は徐々に夢中になり始めた。
 いつも固く屹立していた肉と同じ肉なのだと思うと、不思議な感じがする。
 の前では常に欲情を示していた肉だった。
 だから、ある意味体目当てなのだと開き直っていたこともある。
 お互い体が目当てで、だからこの関係はある意味正当なものなのだと思おうとしていた。
 すぐに破綻するようなくだらない理由だったが、それでもにとっては掛け替えのない理由だった。
 孫策の傍に『居ていい』理由が欲しかった。
 何のわだかまりも後ろめたさもなく居られる正当な理由さえあれば、自分は孫策の傍に居ていいと思えたのだ。
 どうしても見つけられなくて、体目当ての関係と断じるのが虚しくなって、は別れを切り出した。
 理屈は色々付けたが、結局、は孫策を独占したかっただけだったのかもしれない。
 それが叶わないと分かっていたから、自らのプライドを守る為だけに別れを切り出したのだと思う。
、汚ぇから」
 一度口から出したのを見計らい、の顎に指を掛け、顔を上げさせてしまう。
 はその指を厭い、外してしまった。
 孫策の胸に、苦い感情が広がる。
「……別に、好きだから」
 平気、と言っては再び顔を伏せた。
 孫策は、不意を突かれて目を丸くする。
 好きだというのが何を指すのか、孫策には測れなかった。
 ただ好きだと言われたことに、たったそれだけのことに、泣きたくなるような衝動に駆られてしまう。

 もう一度の肩を揺すると、は孫策の肉を咥えたまま、目線だけを上げて寄越す。
「お前ン中、挿れたら駄目か?」
 は逡巡した。
 駄目と言えば駄目だろう。
 けれど、もうこうして前戯紛いの口淫を始めてしまっている。
 始めたのは他ならぬ自分だ。誰に促されたのでも唆されたのでもなく、自ら咥えて舐めしゃぶっていた。
 は立ち上がり、無言のままショーツを下ろす。
 孫策に導かれるままソファに横になると、静かに膝を開いた。
「あんま、気持ちよくねーかもしんねーけど」
 要らぬ気遣いを見せる孫策に、は回した手に力を篭めることで答える。
 押し込まれる質量の感触に、は固く目を閉じた。
 時間が掛かったが、孫策は何とか挿入させることが出来たらしい。近くなった肌の温もりと、深い溜息でそれと知れた。
 体の中に、不思議な感覚が沸いた。
 孫策と肌を合わせている。
 幾度となく繰り返してきた筈のことが、何とも言えず新鮮だった。
 体に埋め込まれた肉が伯符のものなのだと考えると、それだけで泣きたくなった。
「……?」
 耳元で囁かれて、戒めていた感情が爆発した。
「伯符」
 四肢を使って、子供のようにしがみつく。自らの体を押し込め、まるで孫策の体に溶け込もうとせんばかりのの様に、孫策はややたじろぐ。
、どした……?」
 は答えず、首を左右に振ってまたしがみついてくる。
 悪夢に脅えているようにも見えて、孫策は憐れみともつかぬ感情が込み上げてくるのを感じた。
、俺のこと、好きか?」
 の目が薄く開かれる。
 孫策から好きだと言われることはあっても、孫策に好きだと言ったことはなかった。
 言えば、逃れられなくなると分かっていた。
 だからこそ、言わずに来た。
「好き」
 囁いた声は、緊張で掠れていた。
 力強く抱き締められて、は小さく身動ぎする。
「……あ、れ……?」
 驚いて孫策を見上げたの目と、苦笑する孫策の目が合わさる。
「……治っ……た……か……?」
 の中に埋め込まれた肉は、急激な勢いで硬度を増して膨張していく。
「こ、こんな簡単に治るもんなの!?」
 憤慨寸前のは、唇を戦慄かせている。
 あまりに早い『治癒』に、孫策が演技していたのではないかと疑惑が頭をもたげていた。
「……さぁ、なぁ……って、馬鹿、お前、何すんだよ」
「治ったんでしょ! じゃあもういいでしょ! 抜け、抜いて今すぐ、大喬ちゃんとより戻して来い!」
「え、ちょ、待てよ、せめて一回ヤッてから……」
「抜けって言ったら抜け、馬鹿!!」
 怒鳴り付けるに対し、孫策は不意に笑い出した。
 つい釣られて笑い出したと孫策は、体を繋げたまましばし笑い転げる。
 ふと素に戻った二人は、どちらからともなく口付けを交わした。
「……好き」
「俺も」
 切なさが込み上げて、は孫策の体にすがった。
 孫策はを抱き締め、互いの熱を確かめるように、身動ぎ一つせず黙りこくっていた。

  

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