は朝からデスクに詰めっぱなしになっていた。
 デスクの上にも横にも、分厚いファイルが山積みされている。
 夏侯淵から指示された資料作りが終わらないのだ。
 無理矢理に時間を作っては外回りもこなしているので、昼食もままならない。TEAM魏では『終業時間内に仕事を終わらせられない者は、無能の烙印を押される』という信憑性のかなり高い噂があるので、のような平社員にとってはかなりきつかった。
 少々厄介ではあったが、馬車馬の如く全力で頑張れば締め切りには間に合う程度の量であり、内容であるので、偏にの未熟が主な原因と言わざるを得ない。
 第一、夏侯淵はその手の無茶振りをして寄越す男ではない筈だ。営業成績ばかりに気を取られていたには、言い方は悪いがいい薬なのである。
 ……とでも思わなければ、正直やっていられなかった。
 頑張れ私、と呪いのように繰り返しながら、モニターに向かっている。
 ふと、そのモニターに影が落ちたような気がした。
 不思議に思う間もなく、デスクの端に置いた指示書が取り上げられる。
 夏侯淵かと思ったら、違っていた。
「…………」
 表記不能な音が、の口から漏れる。
 斜め下から見上げるのは初めてだったが、そこに立つのは間違いなく君主曹操その人だった。
 曹操は、夏侯淵からの資料作成の指示書を目で追っているようだ。
 偶々気になる個所でも見付けたのかと考えるが、曹操が無言のままなので定かではない。
「……よし」
 何がよしだか分からない。
 ぽかんとしているの周囲も、君主の乱入に静かにどよめいている。
 曹操は指示書を置くと、電話の横にあるメモ帳にざらざらと何やら書き出し始めた。
「資料課に行き、ここにあるデータを供出するよう言って来い」
 否定を許さない以前に否定することすら思い浮かばず、は椅子を蹴って駆け出す。
 駆け付けた先の資料課でも同様で、差し出されたメモの字体を見ただけで課長以下総出でデータの探索に奔走してくれた。
 お陰で、同じフロアとはいえ移動のロスを含めても五分内でデスクに戻ることが出来たが、事ここにきてもは、未だ自身の置かれている状況が呑み込めていなかった。
 君主曹操は、TEAM内でも最も多忙を極める上司である。
 涼しい顔をして業務をこなしているのでなかなかそうは見られないが、その多忙な曹操が何故のデスクに張り付いているのか理解に苦しむ。
 しかも、曹操は立っているのである。
 真横に腰掛けられるよりは良かったかもしれないが、上司の中の上司たる曹操を立たせ、あまつさえ見下ろされているというのは、どうにも胆が冷える事態だった。
「持って来たのなら、そこに置くがいい」
 デスクの端を指差され、そこに積み上げる。量は多いが、すべてCD−ROMだったので、重量としては然したるものではない。
 それまでが参照していた紙データは、どこにやってしまったのか消え失せていた。
 デスクの横は勿論、見渡す範囲のどこにもない。
 なし崩しに席に着くと、曹操がCD−ROMの小山の中から一枚を引き出す。
「一件目の資料は、この中のA行というフォルダの中だ」
 へ、と曹操を見るが、曹操は繰り返そうともしない。
 ただモニターの画面を見ているのみで、は慌ててCD−ROMをトレイにセットした。
 読み取る間さえ、せっ突かれている気がする。
 背中に嫌な汗が滲んで来た。
 内容が表示され、がフォルダを開けると、曹操は検索を掛けるように命じる。
「……あの、作れと言われた資料は……」
 検索しろと言われた社名と一件目の指示書の社名が合致せず、は恐る恐る申告する。
「その社は、四年前に合併して社名変更をしている。事実上の吸収合併だ、資料に上げるなら吸収先のこちらのデータを参照した方が早い」
 間髪入れない解説に、は返事も忘れこくこくと頷く。
 が言われるままにデータを用意すると、今度は資料の本文をすらすらと吐き出す。
 既に出来上がった資料を、ただ読み上げているのかと思わせるような滑らかな口調に、は思考の一切を棄ててキーを打ち込むだけで精一杯だった。
 ようやく打ち込んだ文章を、曹操はちらりと見遣るのみだ。
 だが、軽く頷いている。
 まさかと思うが、その一瞥だけで打ち込んだ文章のすべてを読み終えてしまったのだろうか。
 言っては何だが、短い文章ではない。
 背中に浮いた汗が、寒気で一気に引いた。
「次」
 またも曹操が口を開き、紡ぎ出される言葉の数々をが必死に打ち込む。
 曹操が口を閉ざし、最早半泣きのがかなり遅れて打ち込みを終えたのを了解したかのように、曹操が横目を向けてくる。
「……七十二行目、配当の字が間違っている」
 悲鳴を上げたくなる。
 誤変換されていた『は伊藤』の文字を、再変換して直した。
 モニターを見る時間など一秒にも満たないだろうに、どうして気付けるのか、理解できない。
 のみならず、今の指摘で本当に曹操が『きちんと』文章を改めているのだということを、腹の底から思い知らされてしまった。
 もう、迂闊なミスも出来ない。
 曹操が綴る『音』を、死に物狂いで打ち続ける。
「二百一行目、規制の文字が違う」
 本当に、死にたくなった。

 そんなことを何度か繰り返し、が燃え尽きかけた頃、曹操はおもむろにマウスに手を伸ばし、モニター画面をスクロールさせる。
「打ち出しておけ」
 来た時と同じく、そのまますたすた立ち去っていく。
「は……はい……」
 息も絶え絶えながら、は印刷の指示を出し、力尽きてデスクに倒れ込んだ。
「……サン、だいじょぶデス?」
 珍しくが寄って来る。
 普段なら、『大丈夫』と虚勢を張ってみせるだったが、今日は本当に力尽きていて、起き上がる気にもなれない。
「ありがと……ちょ、ちょっと、休憩させて……」
 引き攣った笑みを浮かべるのが精一杯のに、は如何にも気の毒そうな視線を向ける。
 同情してくれてのことかと思ったら、違った。
「何をしている」
 飛び上がりそうになる。
 何故か曹操が戻って来ていた。
 手には、コートを携えている。
「早く仕度をせんか」
「……え?」
 の目の前で、曹操の眉間に深々と皺が刻まれる。
「すっ、すぐ仕度しますっ!!」
 椅子を引っ繰り返しそうな勢いで立ち上がるを、が背後からナムナムと拝んでいた。

 打ち出した資料の方はが綴じ込んでおいてくれるということで、は曹操に伴われて取引先回りの途に就く。
 取引先は、皆思わぬ『君主』の登場にどん引きならぬ恐慌状態だ。
 K.A.Nという会社自体、ある意味業界のトップのようなもので、そのトップの中のトップに近い人間が前触れもなく現れたのだから、どうしたって仕方がない。
 下請け業者に当たる工場の事務員など、余程強烈に脅されでもしたか、震えながらもどうぞと差し出したコーヒーカップに指を引っ掛けてしまい、勢い何故かにぶちまけるというハプニングまで引き起こしてくれた。
 同情こそすれ、腹を立てるつもりは微塵もない。
 コーヒーを被ったのはなのに、謝罪の方向が曹操一直線だったとしても、だ。
 次回の訪問時には、ミスの時とは違った意味でのお詫び行脚になるんだろうなぁと遠い目をしながら、は工場を後にした。
 当たり前だが、曹操も一緒だ。
「次は、どこだ」
「……予定では、こちらが最後です」
 昼食は抜いたというものの、日は未だ高い。
 時間が空けば新規の顧客開拓と決めてはいるものの、曹操を連れてはそれも難しい。ある意味、無敵アイテム装備状態と言えなくもないが、無敵に過ぎて本体が持たないからだ。
「では、今日の予定はすべて消化したのだな」
「はい」
 残念ながらとは言えなかった。
「社に戻られますか?」
 その後、一人になってから改めて新規を探して回ろうかと考えているの肩を、曹操は当たり前のように抱いた。
 頭の中が白くなる。
「……あっ、の……こ、コーヒー、がっ!」
 固まるが声を振り絞る。
「あぁ、コーヒーを零されていたな」
 コーヒーのせいにして離れようと目論むだったが、思わぬ藪蛇を呼んだ。
「まず、着替えを買わねばなるまい」
 来た時と同じようにハイヤーに押し込まれ、は拉致された。

  

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