馴染みのスナックに、夏侯淵はいた。
 酷く疲れている。
 早朝から休む間もなくばたばたした挙げ句、『主役だから』という理由のみで、四次会まで引っ張り回されていたせいだ。
 裏切り者は、どれだけ酷使してもいいそうだ。
 浴びるように酒を飲まされて、いいように弄られて、しかし立場の上から逆らうことも出来ない。
 理由はどうあれ皆に負担を掛けることになってしまって、申し訳なさが先立つから尚更だ。
 疲れない方がおかしいのだろうが、そんな引け目もあって付き合わざるを得なかった。
 本当は、五次会の話もあったのだ。
 いい加減にしてくれと逃げ出した矢先、曹操に捕まってこのスナックに連行された次第だ。
 そもそも逃げ切れそうになかったから、どちらでも変わらなかったかもしれない。
 けれど、結果が同じなら向こうの連中に囲まれていた方がマシだったような気がしていた。
「聞いて居るのか、淵」
「聞いてますって」
 真隣に陣取った曹操は、頬をやや上気させて夏侯淵に詰め寄る。
 TEAMの連中が見たら、あの冷厳な曹操がと、さぞ驚くことだろう。
 傍目には冷厳であっても、曹操の芯はとてつもなく熱い。正に劫火の如くである。
 それは、曹操の身内でなければ知り得ぬことだった。
「聞いて居らぬではないか!」
 突然、曹操が怒鳴る。
 他の客に迷惑この上なかったが、幸いと言うよりは生憎誰も居なかった。
 生憎というのは、居ればそれを理由に宥められるし、元より赤の他人の前で醜態を晒す曹操ではないからである。
 どうも、あらかじめ電話なりして他の客を閉め出したと覚しい。
 もっとも、顔馴染みの常連以外はほとんど顔を見ない店だ。よくもまぁ商売が成り立つものだと、夏侯淵はいつも感心している。
 視線をちらりと向けると、マスターが磨いたグラスもそのままに、軽く手を掲げて見せる。
 頑張れ、と有り難くもないエールを送られたと理解し、軽く睨め付けてやった。
 夏侯淵とて、何も好き好んで曹操の逆鱗に触れたい訳ではない。
 だが、世の中には如何ともし難いことがある。
 結果、曹操から『裏切り者』と思われても、夏侯淵にはどうすることも出来ない。
 ともあれ、曹操をなだめなくてはならなかった。
「聞いてなかったら、返事もしてませんて!」
 渋々正論で言い返すと、曹操は不意に黙り込み、ストレートのスコッチを口に含む。
 常と変らぬ見た目とは裏腹に、かなり酔っているらしい曹操は、口に含んだ分を飲み下すと、再び夏侯淵に向き直る。
「……聞いていて、何故勝手に決めた」
「いい加減にしろ、孟徳」
 如何にも嫌気が差した風な夏侯惇が、うんざりしながら割り入ってくる。
「うるさいぞ、元譲。黙っていろと言っている」
 夏侯惇の気持ちは有り難いが、残念なことにこれが最初の助太刀ではなかった。
 むしろ夏侯惇が口を挟むことで、曹操の気持ちがますます頑なになっている傾向さえあって、夏侯淵には悩ましい。
 好意で止めようとしてくれているのは分かるのだが、完全に逆効果なのだ。
 夏侯淵を放置し、しばし軽く小競り合っている。
 その間に喉を湿らせ、夏侯淵は目を閉じた。
 思えば、との付き合いもそこそこ長い。
 まさか男と女として付き合うことになるとは思ってもみなかった。
 は可愛い部下の一人であって、そういう対象として見たことがなかったのだ。
 別に、に女の魅力がないと言う訳ではない。どちらかと言えば、それが元で問題になることが多いタイプだ。
 は仕事熱心な割に、やり方が拙い。
 相手がまともならば何の問題もないのだが、TEAM魏の営業先ともなると、大体が海千山千の脂ぎった親父連中である。
 当然と言うのも腹立たしいが、しょうもない『見返り』を求める人間も少なくなかった。
 統括室に同期がいる為か、しょうもない親父の代表格たる董卓に目を付けられたことさえある。
――あの胸がいかんわなー。
 の胸元は、その手の好き者には堪らない豊かさを示している。
 はちきれそうな胸と幼さの残る顔とのギャップは、ある程度の年代にはかなり有効な代物だ。
 それが、仕事熱心からとはいえ傍らに寄ってくれば、嬉しくないこともない。
 娘世代に蛇蠍の如く厭われる親父からすれば、ちょっとした妄想を抱きたくなる女なのである。
――でもなぁ、ありゃあ……。
「何だ、妙才。あの女の乳でも思い出しているのか」
 謎の液体が気体に詰まり、夏侯淵は盛大に咳込んだ。
 知らぬ間に指が想像に添って動いていたものらしい。
 だが、そんなわずかな動きでその相手まで察してしまうのが、曹操の恐ろしいところだ。
「あの女の乳は、確かにいい乳だ。だがあの女、鳩胸だろう。お主、騙されているのではないか」
 妙に生真面目な顔をして、言っている内容は下劣そのものだ。
 呆れ返って沈黙して居たくもなるが、しかし、その前に問い詰めなければならないことがある。
「何で殿が知ってんですか」
「見れば分かろう」
 殿だけですと突っ込みたいが、夏侯淵は我慢した。
 の乳の話を、わざわざ自分から引き延ばしたいとは思わない。
 曹操の向こうで、夏侯惇が真っ赤な顔をしているのも、あまりにも気の毒だった。
「……殿。殿は、が駄目だってんですか」
「駄目とか駄目でないとか、そんな問題ではない。思い切りが良過ぎると言って居るのだ。大体、儂の許可なく……」
「いい加減にしろ、孟徳」
「黙って居れ、元譲」
 またも繰り返す。
 ちらりと視線を投げ掛けると、遠くで待機していた曹仁が、大層嫌がりながらも立ち上がる。
「……つーか。もう決まったことなんですから、いい加減諦めて下さいよ。恨むなら、煽った殿ご自身を恨むってことで」
「待て、妙才。話はまだ……」
 追いすがる曹操の前に、鉄壁曹仁が立ち塞がる。
「退け、仁。儂は淵に話が……」
「先程から伺って居りますに、同じ話を何度も繰り返しておいでです。夏侯淵の抜けた穴、殿にもご協力いただかねば到底埋まりませぬ。深酒もこの辺になされよ」
 曹仁が訥々と言い聞かせている間に、夏侯淵は出口へと向かっていた。
「寂しくなるな、淵よ」
 店のマスターが、預かっていた鞄を放ってくる。
「だが、おめでとさん。落ち着いたら、時々は顔を出せよ」
「あぁ、有り難うな。けど、来れるかどうかは分からんな。何せ、殿があの調子だ」
 曹仁、夏侯惇に押さえ付けられながら、曹操は未だ何事か口走っている。
 それに深々と頭を下げ、夏侯淵は店を後にした。
 外はかなり暗い。
 町中にも関わらず、わずかながら星が光っているのが見て取れた。
「……やれやれ。明日っからは、もう少し何とかせにゃあなぁ」
 もう、今まで通りに生きていくことは出来ない。
 曹操や夏侯惇との関係も、徐々に変化していくことだろう。
 寂しい気もしたが、それだけだ。
「……帰るか」
 夏侯淵は、家路を辿る。
 今までの家とは、違う道だ。
 ゆっくりと、しかし着実に、夏侯淵は道を踏み締めた。
 明日から、否、今日から、やることは山積みである。
 引っ越しの残りの荷物を片してしまわなければならないし、明後日からは海外だ。その準備もしておかなければならない。
 忙殺されると分かっていながら、心が軽いのは新生活への期待故だろうか。
 過去と決別した己は、予想を遥かに上回って身軽く、爽快だった。

 夏侯妙才、との結婚式を迎えた夜の話である。

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