夜遅くではあったが、は寝付けずに居た。
 夏侯淵との結婚式は、まるで戦場さながらに慌ただしかった。
 二人とも営業の関係からか、招待客はかなりの数に上り、挨拶一つだけでも相当の労苦と化す。
 疲れはピークに達していたが、眠れないのは昂っているからだろう。
 夏侯淵の妻になったという実感が半分、未だ夢を見ているようだという気持ちが半分、絶妙のバランスでの神経を張り詰めさせていた。
 私でいいのだろうかと、この期に及んで思う。
 夏侯淵は昔堅気な人間で、結婚前の同棲を良しとしなかった。
 勿論、最初から結婚を意識していた訳ではない。
 ただ、デートの度、言ってしまえば愛し合おうとする度に邪魔が入る。
 それは、曹操からの電話であったり、市場や部下のトラブルであったり、理由は色々である。
 邪魔されて腹が立たない訳ではなかったが、あまりにも素晴らしいタイミングで邪魔が入るもので、呆気に取られることの方が多かった。
 怒らずに夏侯淵を見送れたのは、偏にの仕事に対して寛大に過ぎる理解力と、この放心によるところが大きい。
 何を言いたいかと言えば、つまり、は未だに処女なのである。
 この事態に焦れたのは、何故かではなく夏侯淵だった。
 幾度かそういうことが続いて、眦を吊り上げてから深い溜息を吐いた夏侯淵は、ベッドの上で胡坐を掻くと『よし、結婚すっか』と叫ぶなり膝を打った。
 今にして思えばあんなプロポーズもないと思うのだが、ここでも呆気に取られたは、勢いのままに『はい』と返してしまったのである。
 冗談だったのだろうかと悩みながら翌日出勤したところ、夏侯淵から『暇な時に読んでおけ』と言われて手渡されたのが、某結婚情報雑誌だったというオチだ。
 本気だったんだなぁ、と、は両手にずっしり重い雑誌を見下ろしたものである。
 我ながら酷いな、と、ぼんやり考え込んでいると、玄関の方で物音がする。
 鍵を開ける音、閉める音、靴を脱ぎ、廊下をぺたぺた歩く音が続く。
 足音は、洗面所の扉を開けたと思しき音の後、遠くなった。
 ややもして、水音が聞こえる。
 シャワーを浴びているのだろう。
 ここに来て、は落ち付かなくなった。
 夏侯淵が帰って来たことは分かるのだが、途端に自分の居場所がなくなったかのような心許なさを感じている。
 何と言うか、夏侯淵が帰ってきた以上はここは夏侯淵の居場所であり、自分はあくまで間借りしていたに過ぎないといったような、不可思議な感覚だ。
 結婚したのだから、この新居は二人のものである。
 にも関わらず、どうしても落ち付かない。
 思うに、これが初夜の効果なのかもしれない。
 前述の通りの理由で、は夏侯淵と朝を迎えたことすらなかったのだった。
 うろたえている間に水音が止まり、気のせいか水気を含んだ足音が寝室に近付いて来る。
 は今、寝室に居る。
 ウォークインクローゼット以外には、どの部屋にも繋がっていない作りである為、の逃げ場所はどこにもなかった。
 どうしよう、どうしようと焦っている間に、寝室のドアが開く。
 腰にタオルを巻いただけの夏侯淵が、極々自然に入って来た。
 そのままクローゼットに入っていくのを、は赤面しつつ見送る。
 通り過ぎ様に香るシャンプーの匂いに、心臓がばくばく騒ぎ始める。
 夏侯淵は、の視線を余所に、さっさとタオルを落としてしまった。
 ぎゃっと声を上げたいのを堪え、そっぽを向く。
 嫌なのではなく、むしろ逆だった。
 破瓜直前までいったこともあるのに、夏侯淵の裸を見るとどきどきする。
 恥を承知で明かせば、は、女の身ながら襲い掛かりたくなってしまうのだ。
 シャワーを済ませて新しい下着を穿いたばかりだというのに、今まさに汚してしまったのが分かる。
 恥ずかしさにもじもじと腿を擦り合わせていた。
 と、背後から夏侯淵が顔を覗かせる。
「遅くなって、悪かったな」
「あっ、いえ、いいえ、全然……」
 こんな言い方はない。
 反省するのだが、フォローの言葉も浮かばない。
 夏侯淵と向き合って、パジャマの裾をぎゅっと握り締めた。
 が黙しているのに合わせ、夏侯淵も黙している。
 ちら、と上目遣いに夏侯淵を見上げるに対し、夏侯淵は無言でにっと笑って見せた。
 ほっとする、が大好きな笑顔だった。
「……おかえりなさい」
 が微笑むと、夏侯淵も笑みを絶やさぬまま、その手を取った。
「ただいま、な」
 互いに顔を寄せ、唇を合わせる。
 式を挙げて披露宴を済まし、二次会まで付き合ったというのに、はここに来て初めて、夏侯淵と結婚したことを実感したのだった。

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