ホテルにはタクシーで乗り付けることとなった。
「後で、払いますから」
「いいって」
 財布を持たないは、その支払いが出来ない。
 必然的に夏侯淵に支払わせることになって、土下座したい衝動に駆られるばかりだ。
「おら、行くぞ」
 半泣きで俯いているをどやし付けて、夏侯淵はやくざよろしくがに股の擦り足、肩を怒らせながら歩く。
 わざとコミカルに振る舞っているのが、直感ではあるが感じ取れた。何でそんな真似をと考えてはみるが、もいい加減に煮詰まっている状態だったので、頭がまともに働かない。
 夏侯淵は早くも正面玄関前まで辿り着いており、ドアマンが恭しく出迎えるのへ軽く手を掲げ、何か話している。
 が追い付くと、それに併せてドアマンに別れを告げた。
 知り合いなのかと考えてみるが、どの系統の知り合いなのかまでは見当が付かない。
 何にせよ、夏侯淵の顔の広さを改めて知ることになった。
 玄関を潜ると、明るいが眩しくはない灯りが包み込んでくる。足下の堅い石の感触が厚い柔らかな絨毯の感触に変わり、冷たく凍えるような空気が暖かく緩やかなそれに変わる。
 急激な変化が、の冷静さを根こそぎ奪い去った。
 ふわふわと浮き上がるような感覚に足がよろける。
「……どした?」
 フロントでカードキーを受け取ってきた夏侯淵が、訝しげにのぞき込む。
「あ、いえ、何でも!」
 誤魔化そうとするのだが、声が上擦ってしまう。
 恥ずかしさに苛まれながら、それでも誤魔化し続けるしかなかった。
「あ、カード、カードキー預かりますっ! あざッス!」
 夏侯淵の手にあるカードを受け取ろうとして、前のめりにつんのめる。転倒こそしなかったが、フロント前での醜態にの頭はますます沸騰する。
「おいおい、大丈夫か、お前」
「だっ、だだ、大丈夫ッス! ありがと、ございマスッ!」
 機械仕掛けのおもちゃのように、ぶんぶんと腕を振る。顔は真っ赤で、あからさまに普通でない。しらっとした夏侯淵の様に、は気圧されたように黙り込む。言い訳したいことは山程あったが、言葉どころか単語一つも綴れず、口をぱくぱくさせるのみだ。
 の前髪が揺れる。
 夏侯淵の溜息のせいだ。
「……ほれ、カード」
「あっ、はい、有り難うございます、行ってきまっす」
 ターンして走り出そうとするの肩を、夏侯淵ががっつり掴んで引き留める。
「エレベーターホールは、あっちだ」
「あ」
 指差された方向へ再びターンするも、再度夏侯淵に引き留められる。
「で、お前は何階の何号室に向かおうってんだ」
「え」
 手にしたカードキーに目を落とすも、硬質なプラスチック性のカードの表面には、生憎部屋の番号らしき数字は見受けられない。
「あれ」
 固まるの腕を取り、夏侯淵はエレベーターホールに向かった。

 エレベーターは、と夏侯淵を乗せるとすぐに上昇を始める。
 かなり上の階らしく、エレベーターが上がるに従って地上の灯りがどんどん遠くなっていった。
 上から押さえ付けられるかのような、わずかではあるが確かな重力が、ぽんという軽やかな音と共に消滅する。
 慣性の法則のせいか、体が一瞬浮き上がり、落ちるのを感じた。
 気持ちまでもが振り回されるようで、は意味もなく唾を飲み込む。
 夏侯淵は、エレベーターを降りると迷うこともなく右に折れ、廊下を真っ直ぐ突き進んだ。
 どうにも使い慣れている。
 ドアマンと知り合いであるらしいことも含め、誰と、何度、何の為にこのホテルを使ったのだろう。
 対象も定かでない嫉妬に、はもやもやさせられてしまう。
「おら、ここだ」
 さっさとカードを通して鍵を開けると、夏侯淵はドアを大きく開く。
「あ、はい」
 肩に力が入った。
 事情がどうあれ、夏侯淵とホテルに来ていることは間違いない。
 それも、今まさに二人でその一室に足を踏み入れようとしている訳で、緊張しない方が嘘だ。
 が部屋の奥へと足を進めると、背後でパタンという音がする。
 ぎょっとして振り返ると、夏侯淵もぎょっとした。
「……閉めちゃ、まずかったか?」
「あ、いえ、いえ、音に、驚いただけです」
 慌ててドアを開けようとする夏侯淵に、も慌てて言い訳する。
 考えてみれば、わずかな間だろうと上司たる夏侯淵にドアを抑えておけというのもおかしな話だ。ストッパーを使ってわざわざ開けておくのも、また妙である。
 夏侯淵にその気はないだろうしと考えて、は勝手ながら微妙に凹んでしまっていた。
 誰かを好きになるのは大変だ、と、改めて思う。
 振ってくれて構わないと思いつつ、振られた自分を考えると鬱になる。
 応えるつもりはないんだと知りつつ、もしかしたらと期待するのを止められない。
 とりあえず、無能で嫌われるのだけは嫌だと思い返し、そして曹操の言葉を思い出す。
――何に付け、行き過ぎは良くないと言うことだ。
 あれは、どういう意味なのだろうか。
 夏侯淵は真逆である、と言っていたにも関わらず、『夏侯淵も行き過ぎている』という言葉にはその通りと頷いた。
 言葉の流れを考えれば、『夏侯淵は真逆』という言葉は『夏侯淵は行き過ぎていない』と捉えられるのだが、『夏侯淵も行き過ぎている』のであれば、曹操の元恋人との比較の原点は『両者共に行き過ぎる』ことにこそある、ということになる。
 その上で、曹操の元恋人と夏侯淵とで真逆な点とは何なのだろうか。
 ヒントを強請るつもりで発した言葉は、逆にヒントを切り捨てる要因になってしまった。
 ノーヒントで正解を叩き出すには、ちょっとどころでなく厳しい難問である。
 けれど、知りたい。この問いの解が欲しい。
 それが夏侯淵のことであればこそ、何が何でも知りたかった。
 誰かを好きになるのは、本当に大変なことなのだ。
 天が、世界が、何もかもが変わってしまう。
 は、思わず溜息を吐いた。
「……どうした。荷物、見付かんねぇのか?」
 飛び上がりそうになった。
「え、いえ、ちょっと、ぼーっとしてて!」
 あははと乾いた笑いで誤魔化すと、夏侯淵の表情が翳る。
「……あー。ここんとこ、お前には無理させてるから、なぁ」
「いえ……」
 急に落ち込んだ風な夏侯淵に、はどきりとさせられる。
「いやあの……確かにちょっと大変かもしれませんけど、勉強になりますし。それに、そう、曹操様が今日、手伝ってくれたんですけど、私が半日以上は絶対掛かっちゃう資料作り、あっという間に終わらせちゃって。そーか、業務に精錬できるとこんなことが出来ちゃうのかって、凄いびっくりして、あれは、ある意味新しい目標になっちゃいましたねー、うん!」
 まくし立てるに、夏侯淵は苦笑を漏らす。
「殿クラスっつったら、幾ら努力するったって難しいだろうよ……それよか、惇兄に手伝ってもらったらどうだ」
「は? ……夏侯惇部長……ですか?」
 意表を突く人の名に、の声が引っ繰り返る。
「……いやぁ、さすがに、部も違いますし……それに、夏侯惇部長みたいに忙しい方、間違ったって私なんかが顎で使えませんよー」
「つったって、惇兄とお前、仲……悪かぁねぇだろ。惇兄だって、お前が頼みゃー断らねぇだろうし」
 妙に引っ掛かる物言いは、到底捨て置けるものではなかった。
「煙草仲間ですし、時々相談にも乗ってもらうことはありますけど……」
 その相談とて、ほとんどが夏侯淵絡みのことだった。名前こそ出していなかったが、いい加減露骨過ぎて気付かれているんじゃないかと思うことすらある。
「惇兄、あの手のデータにゃ詳しいぞ。ただでさえひいこら言ってんだ、少しくらい甘えても、惇兄は怒らねぇよ」
 ここに来て、唐突に曹操の出した難問の答えが閃いた。
 曹操の元恋人と夏侯淵とを比較した際、曹操をして『真逆』と言わしめるもの。
「……部長、まさか、私と夏侯惇部長のこと、変な風に想像してないですよね?」
 沈黙は時に雄弁だ。
 の眉が、一気に吊り上がった。
「まさか、まさかとは思いますけど、まさか、あの資料作りって、私と夏侯惇部長を接触させる為にやらせてるとか言いませんよね?」
「……そうは、言わねぇけどよ」
 うっかり肯定でもされた日には憤死ものだったが、幸い最悪のケースは否定された。
 だがしかし、それなら何だと言うのだ。
 はあくまで前向きに、自身のレベルアップの為に夏侯淵がくれた愛の鞭だと捉えていたが、こうなると、その見解は妄想の域に突入するレベルでの誤解だったと思わざるを得ない。
「言わない、けど? じゃあ、何だったんですか」
 問い詰めて真実を知るのは、怖い気もした。
 けれど、聞かずには居られない。
 夏侯淵のことなら、それがどんなに嫌なことでも全部知りたかった。
「……何だったんですか」
 答えない夏侯淵に、は同じ問いを繰り返す。
 言わないで済む空気など、たったの一パーセントだとて存在するのを許したくなかった。
 みちみちと張り詰める空気に、夏侯淵は酸欠を起こした人のように浅く短い呼吸を繰り返す。
 は、そんな夏侯淵から視線を外さない。
 ある意味、今日こそ決戦だという予感がある。
 覚悟は、心臓に長い針を突き立てるような痛みと寒気をもたらした。
「八つ当たり、だな」
 ぼそりと、不貞腐れたように唇を尖らせて、夏侯淵が吐き捨てる。
「やつあたり」
 半ば無意識に棒読みで復唱するに、夏侯淵の頬に鮮やかな朱が浮き上がった。
「……あー、そーだよ八つ当たりだよ! つーか、お前、惇兄目当てならこんな回りくどいことしないで、直接当たってこいってんだ。そんなら俺だって、こんな小っ恥ずかしい真似しやしねぇよ!」
――ほんとーに、なにをいってるんだろうかこのひとは。
 は呆然としていた。
 夏侯淵の言うことの何もかもが予想外で、理解不能だった。
 そうでありながら、やっぱり、とも思う。
「夏侯淵部長、まさか、まさか私が夏侯惇部長目当てでぎゃーぎゃー騒いでたとか、言ってるつもり……じゃ、ない、ですよね?」
 曹操の元恋人と夏侯淵の真逆な点とは、一方がすべてを恋愛に消費しようとするのに比べ、一方はすべからく恋愛から逃れようとすることなのではないか。
 説得力のある仮定を手に入れ、それを基にして恐る恐る問い掛けたに、夏侯淵は自棄になったように喚いた。
「だから! さっきっから、そう言ってんじゃねぇか! 協力ならしてやる、だから、俺を妙な形で巻き込もうとはすんな!」
 仮定は、少なくともノットイコールではあると立証された。
 直後、夏侯淵の顔面に枕がクリーンヒットする。
 枕が一人で飛んでいく訳もなく、勿論が投げ付けたのである。
「痛ってーな……!」
 夏侯淵が枕を除けた途端、第二弾が炸裂する。
「お前っ!」
 怒鳴ろうとした瞬間、今度は枕の乱打が夏侯淵を襲った。
「ちょ、おいっ! 痛、痛ーって!」
 口で言う程、痛みがある訳では無論ない。相手への牽制代わりに痛いと訴えてしまうようなところがあった。
 ただし、この場合には何の効果もない。声など聞こえてないように遮二無二枕を振り回し、無闇やたらと夏侯淵を叩きまくる。
 耐え切れなくなった夏侯淵が枕を奪い取り、の手が届かない位置に放り出した。
 短い、他愛もない遣り取りではあったが、二人にとっては冗談事ではなく揃って肩で息を吐く。
「……そもそも、夏侯惇部長には、ちゃんが居るって言ったじゃないですか」
「馬鹿、お前、あんな……」
「それにっ!」
 ゴチャゴチャと口を挟もうとする夏侯淵を、はばっさり切り捨てる。
「それに、あたしは夏侯淵部長が好きって言ってんじゃないですか。それがどうして、夏侯惇部長が好きってことになっちゃうんですか。どうしてそんだけのこと、信じてくれないんですか」
 の眦に、じわっと涙が滲み出る。
 泣きたいのではないから、ぐっと息を呑んで堪える。
「どうしたら信じてくれます? 今すぐフロントに行って、あたしは夏侯淵部長が好きですって、言ってくればいいですか?」
「馬鹿、よせ、みっともねぇ」
「じゃあ、どうしたらいいんですかっ!」
 堪えた涙が吹き出した。
「渋谷の109前にでも行って、宣言してくればいいですか? 取引先に、報告しながら回ったらいいですか? 言って下さい、どうしたらいいか! しますから、あたし!」
 夏侯淵は答えず、もそれ以上言い募ることも出来ず、室内は水を打ったように静かになった。
 元から入れられていたのか、エアコンの空気を震わせる音だけが微かに響く中、かなりの時間を経て夏侯淵が口を開く。
「……悪かった。ちゃんと話すから、とりあえず、顔洗ってこい」
 はっとして頬に指を伸ばすと、涙でぐちゃぐちゃになっている。
 慌ててバスルームに駆け込み、蛇口を勢い良く捻ると、水をすくって顔を洗う。
 瞬間、いつもの三倍増しでぎっちりメイクを施された事実を思い出してしまった。
「やばっ……」
 思わずタオルで顔を押さえてしまう。
 これにも『しまった』と青ざめて、鏡を見る。
 が、意外なことに、メイクはほとんど落ちていなかった。どころか、涙で崩れた様子もあまりない。
 押さえはしたが擦らなかったのが幸いしたかと考えてはみたが、どうにも腑に落ちない。タオルのことは(無理矢理としても)それで説明が付くとして、結構な量の涙を流した筈だった。
 如何に最近の化粧品の質がいいとしても、普通は流れて落ちてしまうだろう。
 ということは、普通の化粧ではないのだ。
 ならば、ウォータープルーフだと考えるのが妥当だろう。防水性のある化粧品を使ったとすれば、涙で流れなかった理由として頷ける。
 その上で、だ。
――……え、じゃあ何? 曹操様、こうなることを見越してたってこと?
 一気に血の気が引いて、かっかしていた頭がさぁっと冷めた。
 涙もすっかり引いてしまって、いつものに戻っている。これから『話し合い』に臨むには、、理想的なコンディションと言えよう。
――まさか、コレも想定内?
 幾ら何でもそこまでは、と薄ら笑いを浮かべてみるも、一度思い付いた妄想は生半かに否定出来なくなっていた。
 もしそうだとするならば、君主・曹操という存在。
 がどれだけ憧れようと、なりたいと思ってなれる存在であろう筈がない。
 無性に怖くなってきて、は化粧直しもそこそこに急いでバスルームを後にした。
 『これ』も曹操の想定内だとしたら、恐ろしい話である。

  

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