青ざめてはいるが、平静を取り戻したと思しきの早々の帰還に、夏侯淵はやや不思議そうな眼差しを向けた。
 は、そんな夏侯淵の視線には応えず、そそくさと元のソファに腰掛ける。
 しばらく沈黙が続いた。
 けれど、これは必要な沈黙だった。
 実際、も頭の中で状況を整理している最中だ。
 そこここに事実が点在しているが、それらを整理して結び付ける正しいルートが確立していない。
 だからこんなにも揉めるし、諍いになるのだろう。
 諍いの起点のほとんどがにあることも、この際認めなくてはいけない事実だった。
 反省しよう、と素直に思う。
「……あのな」
 夏侯淵が口を開く。
 が顔を上げると、夏侯淵は実に悩ましげな表情を見せていた。
「……考えてみたんだが……どうも、俺の恥ずかしい昔話って奴を聞かせてからでないと、上手いこと話が通じないような気がすんだな……お前にゃ悪いと思うが、ちっとばかし付き合ってくんねーか」
 是非もない。
 間髪入れずに了承すると、夏侯淵の表情は一段と渋く険しいものへ変化した。
「おま……ホントに、本気で恥ずかしいぞ? 悪趣味だとか、思わねーのか」
「悪趣味かもしれませんけど、それなら悪趣味でいいです」
 きっぱりとした物言いに、夏侯淵は意味不明なうめき声を漏らす。
「……分かった。そこまで言うなら、話してやる。後で後悔されんじゃねーぞ」
 がするならともかく、夏侯淵が後悔するのは止めようがないのではないか。
 内心密かに突っ込みつつ、はこっくり頷いた。
 そして、その頷きを合図として、夏侯淵の昔話が始まった。

 夏侯淵は、曹操並びに曹仁、そして夏侯惇と親類関係にあり、腐れ縁とも言うべき仲で肩を並べて生きてきた。
 思春期を迎えた辺りから、夏侯惇の周囲には彼に想いを寄せる女性がひっきりなしに現れるようになり、悪ノリしたい年頃の夏侯淵達は、皆で飽きるまで冷やかしたものだ。
 とは言え、飽きるのもそれなり早かった。
 朴念仁の恐ろしさとはかくあるものか、夏侯惇が言葉にならない誘いに乗ることは皆無だったのだ。どころか、言葉にされてさえ理解しかねることが多々あって、露骨に過ぎる言葉を使ってようやく好意が伝わったとしても、露骨であるが故に忌み嫌うという救い難い反応を見せていたらしい。
 そも、女性に対して、ほとんどというよりまったく興味を示さないもので、同性愛者の疑惑さえもたれているような有様だった(もっとも、何かに付けて『孟徳』『孟徳』と連呼していたから、自業自得とも言える)。夏侯淵達が冷やかしても、良い反応をするとは言い難く、当然、からかうだけの面白みもない。
 いつしか夏侯惇の周りに女が居ても、どうでもいい見飽きた光景になってしまった。
 納まらないのが、女性陣である。
 先方がどうであろうと、己らの気持ちは本物であると信じて疑わないから、是が非でも成就させようとあの手この手を考え尽くす。
 最も簡単で確実な手段として、周囲に居る夏侯淵らに橋渡しを求めたとしても何ら不思議はない訳だ。
 曹操は置いておくとして、曹仁は夏侯惇に輪を掛けた難物であったから、自然その役は夏侯淵に集中することとなった。
 けれど、夏侯淵が口を利いてどうなるものでもない。そもそも、夏侯惇の女性に対する興味が薄い為、例え夏侯淵の口利きであろうとそれ自体を厭う風なところがある。
 そうなれば、夏侯淵としても見知らぬ女性陣より縁浅からぬ夏侯惇の意志を尊重するのは自明の理で、頼まれても適当にあしらうようになっていった。
 そこで諦めてくれればもっけの幸い、執拗なのも居るには居たが、夏侯惇が相手にしないのだから、夏侯淵に絡んだところで本末転倒というものだ。
 寄ってくるのを適度に散らしていた夏侯淵は、ある時自分自身の春を迎えた。
 夏侯惇ではなく、夏侯淵を好きだと告白してくる女性が現れたのだ。
 正直、夏侯淵は女に興味がなかった訳ではないし、年相応に異性に憧れもする年頃だった。嫌いなタイプでもないし、と付き合いを始めて、夏侯惇達にも紹介をし、結果集団で連むことも多くなる。
 そうして付き合いが続く内、ある意味定番で最低最悪の結末を迎える日が来た。
 彼女が好きなのは、夏侯淵ではなく夏侯惇だと分かってしまった。
 いつからのことかは分からなかった。最初からかもしれないし、連むようになって夏侯惇の人となりを知ってからかもしれない。
 更に最低だったことは、その事実を夏侯淵に知らせたのは、他ならぬ夏侯惇だった。
 淵、すまん、と、顰められた夏侯惇の顔を思い出す度、夏侯淵は今でも剥き出しの心臓に長い爪を立てられるような心持ちになる。
 夏侯惇の言葉を受けて、彼女に真相を確かめるべく問うた夏侯淵に、彼女は泣きじゃくり、あるいは不貞腐れてこう言った。
――だって、仕方ないじゃない。
 好きになってしまったら、気持ちは止められない。抑えられない。
 それが恋だ。
 本物の恋だ。
 嗚咽しながら、眦を吊り上げながら、彼女はそう言った。
――だから、仕方がないじゃない。
 貴方の隣に夏侯惇が居るのが、私に、そして貴方にとっての不幸だったのだ、と、そう主張したのだった。

「……え、ちょっと待って下さい。それってまさか、一人じゃなかったってことですか?」
「あー。まぁ、二人ばっかり、なぁ」
 二人ならいいというものではないだろう。
 一度ならず二度までも、そんな目に遭えばもう十分だ。
 夏侯淵もご多分に漏れず、同じように考えた。
 踏み台にされるのは、真っ平だ、と。
 は頭を抱えた。
 半ば悲鳴のように漏らす。
「え、まさか、夏侯淵部長ってその二人以外に付き合ったことって」
「ねぇよ。あるわきゃねーだろ」
 ファーストとセカンドでそんな目に遭えば、もうお腹一杯という気持ちになって当然だ。二度あることは三度ある。警戒して然るべしだし、本当に、骨の髄まで懲りてしまったのだ。
 性欲解消なら風俗がある。
 それで十分だったから、今更敢えて誰かと付き合いたいとも思わない。
 告白されることがないではなかったが、夏侯惇目当ての女達と同じように、適当にあしらってきた。
 あしらわれた女達は、一人の例外もなく綺麗さっぱりと見切りを付けて去って行ってくれたから、後腐れも何もない。
「それが、お前ときたら、あしらっても踏ん張るし、断っても聞きゃあしねぇ」
「はぁ」
 果たして、それはが悪いのか。
 疑問は残るが、今はそれを問題にするべきでないことも分かる。
「あの、質問なんですけど」
 恐る恐る手を挙げるに、夏侯淵は軽く顎をしゃくって許可を出す。
「……懲りたんですよね。懲りて、目当てが誰であれ、あしらって散らすようにしてたんですよね」
「おう」
「じゃ、何で、私を夏侯惇部長の方にやろうとかしてるんですか」
 おかしいではないか。
 夏侯惇を巻き込んだことにこそどうやら最大の罪悪感を抱いているような人が、何故また夏侯惇に迷惑になることを、しかも自主的に仕出かそうとしているのか。
「……そりゃまぁ、お前は……だいたい、惇兄だってお前のことは気に入ってんじゃねぇか? そんなら、土台の話が違うってもんじゃねぇか」
「土台が違うって言うんなら、その前段階からしてもう違っちゃってるじゃないですか。私が好きなのは、夏侯惇部長じゃありません」
 第一、夏侯惇が困るだろう。
 夏侯惇が好きなのは、ではないのだ。
「だーから、ホントにお前、そうなのかよ。惇兄があんな娘っこと、よ」
「だから、それはもう絶対そうなんですって。夏侯惇部長だって、ちゃんと認めて付き合ってるんですから! そりゃあ……」
 何も夏侯惇がに岡惚れで、他のことなど手に着かないくらいだとは言わないし、むしろ夏侯惇の方が今の状態に戸惑っている風でもある。
 プライバシーに関わる問題だから、と夏侯惇が付き合ってることすら知らなかった夏侯淵に話していいことか、判断しかねた。
 話の途中で尻すぼみに口を閉ざしたに、夏侯淵は何故か大きく頷いた。
「ほれ見ろ。……いいんだよ、お前なら、俺は幾らでも協力してやるから」
「お前なら?」
 が何の気なしに繰り返すと、夏侯淵の顔に動揺が走る。
 しまったと言わんばかりの表情に、の胸は一際大きく高鳴った。
「……お前ならって、どういうことですか?」
 早い鼓動を抑えて訊ねる。
「だから、惇兄だってお前のこと気に入ってるみてぇだしってな」
「部長は?」
 いつの間にか立ち上がっていたは、ベッドに腰掛ける夏侯淵との間合いを詰める。
 気圧されて退くも、さほど広くはない室の作りが災いして、夏侯淵に逃げ場はない。
「部長は、どうなんですか? 夏侯淵部長は、私のこと、どう思ってるんですか?」
 はベッドの上にぴょいと飛び乗ると、四つ足歩行でじりじり夏侯淵に迫る。
 夏侯淵もじりじり後退るのだが、躊躇いなく一直線に進むのスピードには及ばない。あっという間に膝を抑えられ、次いで手首を抑えられ、の下に組み敷かれている。
 男女逆転もいいところだが、互いに指摘して水を差す余裕はなかった。
「……私は、好きですよ。部長が……夏侯淵部長のことが、好きです」
 鼻先が触れ合いそうな、ぎりぎりの位置で向かい合っていた。
 柔らかな吐息が、微かに肌を湿らせる。
 それに併せ、体の奥底が蕩け出すのを感じた。
 触れ合うだけでこんな風になると、は今まで知らずにきた。
 言ってしまえば挿入直前までは経験があったのだが、こんな感覚は初めてだ。今すぐにでも夏侯淵にすがりついて、どうにかしてしまいたくなる。
 頭で何をどうとは思い付かない。
 けれど、体はすぐにでも行動に移りたくて、ぐずぐずに疼いているのが分かった。
「好き、です……好き……」
 夢の中で吐く睦言のように、熱く掠れた声では呟き続ける。
 空気が揺れた。
 の背中に、力強い何かが巻き付いて、しっかりと戒めている。
 夏侯淵の腕だと気付くのに、数瞬掛かった。
「……あぁあ、畜生め……!」
 耳に直接吹き込まれる怨嗟の声に、ははっと身を竦める。
 けれど、夏侯淵の腕はが身動ぎすることさえ許さなかった。
「くっそ、お前、絶対後悔すんじゃねぇぞ!」
 背中に回った腕に、更に力が込められる。
 みしりと背骨が軋み、窒息するかと思った瞬間、の耳朶に熱い息が吹き掛かり、迸るような快がを痺れさせた。
「俺も、お前が好きだ!」
 言葉の意味を飲み込むより早く、の体は後ろに引き倒された。
 同時に、口が塞がれている。
 キスされていると、知覚でなく直感で理解した。
 全神経が唇に集中している。
 唇を重ねるだけの行為が、これまでが経験したありとあらゆる快楽を凌駕していた。
 鳥肌が立つ。
 腹の下から熱が湧き上がる。
「……好き……好き、好き……好き……!」
 激しい口付けを受けながら、ずれた唇の隙間から繰り返し告白し続ける。
 夏侯淵もまた、の告白にうん、うんと繰り返し応え続けた。
 全身で圧し掛かられて、体中が痺れている。感覚も鈍くなり、服を着ているにも関わらず、己と他の境界線が怪しい。
 けれど、夏侯淵の腹の下に強固な熱がそそり立っていることだけは、はっきりと分かった。
 それが欲しい、と、純粋に希う。
「……部長……」
 呼び掛けるだけでそれと分かってしまいそうな、物欲しげな声だ。
 夏侯淵がの目を覗き込む。
 それで分かった。
 夏侯淵も、を欲しがっている。
 歓喜の感情が胸奥で弾け、涙が滲む。
 の四肢が夏侯淵を巻き締め、自分の元に引き寄せた。
 その分、固い肉がの濡れたショーツにめり込む。
 ぞくぞくして、深い溜息が漏れた。
 どうしようもなく気持ちいい。
 今すぐにでも貫かれてしまいたい。
 唇が重なり、離れ、と夏侯淵は見詰めあった。
 二人とも息を荒げ、頬を紅潮させている。
 自分も相手も同じ気持ちであると、欠片も疑うことはない。
 腕を伸ばし、互いの体を引き寄せ合う。
 一つに重なる筈もない二つの体を、それでも強引に重ねようと双方から抱き締める。
 再び重ねられる唇に、は失神しそうな程の快楽を知らしめられるのだった。

  

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