いきなり、絡まれた。
その時、俺は昼食のわかめうどんを啜り込んでいたところで、そのメニューには然したる意味などなく、昨夜の呑み会の酒が幾分か残っていたが為に食欲がなかったから選んだだけのことだった。
しかし、俺の目の前の席に勝手に座り込んだ男に拠れば、わかめうどんは如何にも俺が選択しそうなメニューであり、それと言うのも俺がホモだからだそうだ。
訳が分からない。
いっそ申し訳なくなるのだが、理解不能の四文字を表情に張り付けているだろう俺に、男は一層苛立つばかりだ。
まぁ、分からないでもない。
相手に通じない嫌み程、非生産的なものはない。
馬鹿にするつもりの相手にコケにされて、快哉を謳う大人物など、早々居やしないだろう。
それでも俺は、ただでさえ少ない食欲を掻き消されてしまった訳で、幾分げんなりしていた。
啜り込むでなく口からだらしなく垂れたうどんを、箸の先で摘んだまま固まっている。
結果、俺はかなりの無表情で男を見上げる形となり、しかも口からうどんが延びている訳で、向こうからすると、ひょっとしたらだがかなり小馬鹿にされていると取られてもおかしくなかった。
沈黙が落ち、俺もいい加減うどん垂らしている自分の姿が滑稽に思えて、うどんを啜り込む。
ちゅるん、という合成音のように出来過ぎた音を立て、うどんは俺の口の中に収まった。
男のイライラは更に際立ち、俺はどうしようもなくてただ男の顔を見ている。
この頃になると、周囲の人間も異常に気が付き静かにざわめきだしていた。
恐らく、そのざわめきも男の癇を刺激して止まないに違いない。
そうは言っても、絡まれる原因に心当たりのない俺としたら、嫌ならさっさと立ち去ってくれないかと願うばかりだ。
男は、だが、酷く怖い顔をして俺を睨むばかりだ。
これも想像だが、男は男で進退ままならず、動けないのではないかと思われる。
何か、ほんのちょっとしたきっかけで良い筈だった。
この緊迫した空気を破るには、それこそ指先でちょいと突いてやりさえすればいい。
しかし、それが出来るのは、俺でも、そんなことすら考え及ばなさそうなこの男でもない。
あくまで外部からのものでなくてはならなかった。
どうするかな、と、俺が柔らかくまた冷たくなってしまったうどんを噛みしめていた時だ。
「よう、凌統じゃねぇか」
陽気な、暢気な声が場の空気を壊した。
むしろ、完膚なきまで叩き壊した。
凌統と呼ばれた男は鋭く舌打ちし、乱暴に立ち上がる。
「何でもないっつの。少なくとも、あんたには何にも関係ないよ」
吐き捨て、そのまま遠巻きに見ていた人の輪をかい潜って去っていく。
かなりの長身が災いして、それでもしばらくは『凌統』の結い上げた尻尾が見えていた。
「……アンタ、凌統の知り合いか?」
首を振ると、暢気で陽気な男は怪訝そうに片目を細める。
「知り合いじゃないのに、話してたってのかよ」
「話してたって言うか、絡まれてたって言うか」
俺の答えは、男の疑問を深めるばかりのようだ。
「……ふぅん」
けれど、男はそれきり興味を無くしたようで、適当な相槌を打つと無言で立ち去っていった。
背中を見せつつ、ひらひら手を振っている辺り、無礼ではあっても不愛想ではないようだ。
周囲の視線は自然俺に集まったが、俺が席を立つと煙が散るように掻き消えた。
後ろ姿に視線が刺さっているような気もしたが、後ろに目が付いていない俺としたら、そも確かめようもない。
気にしないことにした。
「そんなら、TEAM呉のチーフデザイナーの人と違う?」
美波さんに訊ねると、思いの外あっさりと答えを得ることが出来た。
「凌統殿ですか?」
姜維主任が割り込んでくる。
美波さんの声に釣られてであって、俺が美波さんに質問していた時には傍には居なかった。
ということは、よっぽど有名なのだろう。
「有名よ?」
見た通りの高身長でやや細身の凌統は、社内にあっても身長相応に目立つらしい。加えて、若年ながら気鋭の新進デザイナーとして名を馳せつつあり、家柄もしっかりしているところから、それ向けの雑誌にインタビューを受けるような男だそうだ。
「俺、知らないです」
「あかんねぇ。普段、何読んどるの」
あまり雑誌は読まない。
以前は、会話の繋ぎとしてある程度は目を通していたが、それも流行のブランドやら話題の映画やドラマについてが多く、後はDVDで撮り溜めしていたのを見るのが精一杯だった。
ブランド名なら未だしも、一企業の専属デザイナーの名前まで知っていろというのは、いささか酷ではないだろうか。
まぁ、美波さんにしてみたら、問題はそこではないのだろうが。
「ふぅん。で、凌統主任がどないしたって?」
「いや……何か、絡まれたんで」
食堂での一件を話すと、美波さんは眉間に深い皺を作った。
「わかめうどん食べたらホモって……何やの、それ」
それが分かったら、俺も悩みはしない。
「でも、うどんはともかくその他のことは……」
うわぁ。
何を言い出すのやら、姜維主任が口を挟んできた。
俺は思わず顔を背ける。
目の端に、そんな俺を見咎めるような姜維主任の顔が映ったが、生憎俺が顔を背けたのは姜維主任の言動のせいではない。
「……姜維君」
冷たい、温度の低さ故に地を這うような声が鼓膜に響く。
大きくないのに、滅茶苦茶響く。
姜維主任が絶句するのが分かった。
あぁ、あ。
美波さんが、凌統とかいうあの男が取ったような遣り口を好まないだろうことぐらい、俺はとっくに理解している。
そんな遣り口を肯定するような言葉を吐いたらどうなるかも、また然り、だ。
そして、美波さんを怒らせると激烈怖いだろうことも、俺はそれなり予想済みだった。
幸いにして、俺は未だ美波さんを怒らせたことはなかったけれど、姜維主任の様子なら、俺の想像はこれ以上なく正しかったということになる。
宝くじが当たるより、嬉しい大当たりだったかもしれない。
俺は、逃げるようにその場を離れた。
背中に姜維主任の視線が突き刺さっているような気もしたが、敢えて流す。
俺の背中には目が付いてないからだ。
背中に目が付いていないことに感謝する日がこようとは、ついぞ思わなかった。
神様、有り難う。